日露戦争から11年が過ぎた1916年10月、東京都心の日本橋川に、男の他殺体が浮かんでいた。身元は分からない。捜査を始めた警視庁特務巡査の新堂裕作が歩き回る東京の街は、店の看板に日本語とロシア語が書かれ、皇居前をまっすぐに走る道は「クロパトキン通り」と名付けられている。チェーホフ通りやプチャーチン広場、ロシア正教の大聖堂の上空で双翼のロシア軍爆撃機が重い音を響かせていた。ここは東京なのに、なぜ。新堂が生きている日本は日露戦争に敗れ、ロシアに統治されているからだ。

 佐々木譲の新作長編は、歴史を改編し、もう一つの「東京」を舞台にした警察小説。日本は外交権と軍事権をロシアに握られ、主権を失っている。人々はこれを「御一新」ならぬ「御大変(おたいへん)」と呼ぶ。屈折と不穏な空気が支配する時代を背景に事件は起こった。新堂は所轄署の巡査部長多和田と2人で、被害者の謎めいたメモの意味を探るが、行く先々で警視庁の上層部やロシア統監府と出くわす。被害者は何を知っていたのか。

 「廃墟に乞う」「ベルリン飛行指令」「武揚伝」など数々の警察もの、歴史もので読者を獲得してきた著者の手際は本書でも冴えている。読み手は冒頭から身を委ねるのが正解。日露戦争に徴兵され、激戦地・旅順の数少ない生き残りである新堂の頭に、戦場の記憶がフラッシュバックする場面や、ロシアとの主戦論を展開した実在の知識人、ロシア統監に豪邸を自ら差し出す日本の大実業家のくだりなど、骨太の物語に虚実ない交ぜの細部を織り込み、カーチェイスあり銃撃戦あり、ラストまではあっという間だ。

 実際にはない東京だが、作中の市電、居酒屋、ガラス工場などで描かれる市井の人たちは皆、働き者だ。ディテールを巧みに彫った人物造形が効いている。「主権回復は、市民生活の安寧に優先する大義じゃないか?」「東京を戦場にして、それが大義になり得ますか」。こんな会話もあって、ちょっと真面目に国家について黙考した。

(集英社 2000円+税)=杉本新

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