二・二六事件で岡田啓介首相(左)と間違われて射殺された松尾伝蔵大佐(右)。松尾大佐は身辺警護を含めて首相の秘書を務めていた=1934(昭和9)年7月

 陸軍青年将校らが1936(昭和11)年2月26日に起こした二・二六事件で、岡田啓介首相(福井県福井市出身)と誤認されて殺された松尾伝蔵大佐(同)が、事件の2カ月半前に福井県の警察幹部に宛てた手紙が福井県坂井市の民家に残っていることが2月23日までに分かった。手紙と一緒に岡田首相直筆の色紙も送っており、陸軍内の派閥抗争が激化する不穏な情勢下にありながらも、郷里を大切にする2人の人柄がうかがえる。

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 坂井市の長谷川雅道さん(63)が保管していた。手紙の宛先は、雅道さんの実父のいとこに当たる長谷川勉さん(故人)。勉さんは当時、福井県警察部の警務課長だった。

 手紙の消印は1935年12月11日。「貴警務課で編集されている『旭光(きょくこう)』に、総理の昭和11年の祝辞を送ってほしいと言ってよこされたが、それはできないことなので、首相の色紙を一枚送ります。ご利用していただきたい」と書かれている。旭光は警察協会福井県支部が当時発行していた機関誌。

 陸軍を退役していた松尾大佐は当時、義兄である岡田首相の秘書をしており、手紙の裏面には「封東京市麹町区 永田町首相官邸 松尾傳蔵」とある。岡田首相直筆の色紙には「和神養氣」としたためられ、花押が書かれている。

 「福井県警察史」によると、勉さんは35年11月7日に警務課長に任命された。旭光発行の事務局は警務課に置かれており、就任してすぐに祝辞を依頼したとみられる。

 この時期は既に、皇道派と統制派による陸軍内部の派閥抗争が激化していた。福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計(つのがなおかず)館長は「緊迫した東京にありながら、郷里からの頼みを何とかしてあげようという気持ちが伝わる。岡田首相の色紙とセットになっており、非常に貴重」と話す。

 また色紙に書かれた「和神養氣」については、中国の書家王羲之(おうぎし)の格言「和神養素」を1文字変えたのではないかと指摘。「精神を和らげ、気を養うと説いている。中国の言葉そのままではなく、日本のオリジナルにしなければという思いが感じられる」と述べた。

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