中編2本からなる1冊だ。表題作『タイガー理髪店心中』は、とある老夫婦の物語である。彼らは古くから理髪店を営んでおり、日々の動きが長年のルーティンとして、すっかり身にしみついている。客を迎え、送り出すまでの、夫婦の役割分担は完璧である。たぶん、目をつぶっていても一日を始め、終えることができる。特に合図など交わさずとも、時計は静かに回り続けている。

 この夫婦は、息子を幼くして失っている。その痛ましい転落事故と、夫の幼い日の「いじめ」(と今なら名付けられたであろう行為)とが絡み合う。切り離したいけれど、切り離すことができない。その逡巡の中で夫は生きてきた。

 ある日、このところ物忘れがひどくなった妻が奇行に走る。夜になると、猛り狂ったのちに外へ飛び出していく。行き先は、息子の死に場所だ。毎晩毎晩、その奇行は繰り返され、毎晩毎晩、夫はそのあとをつけていく。

 ここで、だ。ここで、夫の胸に去来するもの。雨の夜、息子と同じ深い穴の底に落ちて、途方に暮れながら夫がつい口走る妻への思い。「伝えそびれた愛情」とか「感謝」とか、そんなチャーミーグリーンな代物ではない。ただただ、追い詰められた夫が、ふと抱いてしまったどす黒い感情。それが読者の胸を射る。ほんとうは抱いてはいけない、けれど、無理もないこともなくはない。こういう境界線を、私たちは生きている。

 2本目の『残暑のゆくえ』の主人公も老女である。食堂をひとり切り盛りし、激減した客入りを思ってため息をつく。母は自分が幼かった頃に他界しているのに、彼女は母の叱責を今もありありと思い出す。何らかの拍子に、母はすぐ脳裏にあらわれて、彼女を叱る。

 まず描かれるのは、まるで時間が止まったみたいな日常だ。たとえば、商店街に長年暮らす蝋燭屋。同じ場所に、同じ姿勢で座り込み、同じ表情で時間を過ごしている。たとえば、老いた夫。白寿を迎え、もはや「おはようございます」と「おやすみなさい」しか交わさない相手だが、そのことが悲しくもなければ惨めでもない。日常。それ以上でも以下でもないのだ。

 そんな時間の端々で、主人公は母を思う。いつも尖った表情をしていた母のことを今も恐れている。年老いても娘は娘だし、他界しても母は母である。思い返せば思い返しただけ、それらの記憶は、思考を伴って膨大にふくれあがる。そして、ある場面で私たちは息を呑む。母の、娘への、「ほんとうは抱いてはいけない、けれど、無理もないこともなくはない」感情。色に例えるなら椿の真紅だ。

 やがて、ずっと謎だった母の真意と、ずっと謎だった夫の真意が明かされる。壮絶な戦争と戦後の記憶。それでも「生きる」は続いていく。あるのは、ただ、生活だ。

(朝日新聞出版 1600円+税)=小川志津子

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