伝統って、愛だなあと思う。その技を愛する者が、愛するがゆえに、若い者に自らの技を伝えたいと思う。その技を愛するがゆえに、若い者は師匠を慕い、その技を受け継ぎたいと願う。

 上方落語界を舞台にした物語だ。ヒロインは、駆け出しも駆け出し、噺家の卵である「桂甘夏」。兄弟子に「桂小夏」と「桂若夏」がおり、師匠である「桂夏之助」師匠のもとで研鑽の日々を重ねている。しかし、ある日、何の前触れもなしに、夏之助師匠が失踪する。

 弟子たちは、もちろんうろたえる。この人についていくことが自分の使命だと思っていた、その人が忽然と消えてしまった。甘夏は、師匠との数少ない思い出を手繰り寄せる。師匠は、大切な言葉をたくさん残してくれている。それらを反芻するうちに、ただ黙って待つことはやめようと、甘夏の腹が決まる。師匠がいつフラッと帰ってきてもいいように、自分が下宿している銭湯で「師匠、死んじゃったかもしれない寄席」を開催するのだ。

 毎月開催されるこの寄席の場面で、上方落語の代表作が続々と語られる。落語というのは、耳で聞いて、その光景を思い浮かべるものだが、この本では、文字で読んで、その噺が語られている光景を思い浮かべるという、高度なチャレンジが幾度も重ねられる。その高度なチャレンジを、書き手が脱落者なしに成し遂げようとするにあたって、読者を惹きつけてやまないのはやはり、強い強い落語愛なのである。登場人物たちの。あるいは、書き手本人の。

 落語は、観客への信頼がものをいう芸能だ。この言葉は、きっと観客に届く。この仕掛けを、きっとわかってくれる。そんな信頼関係が、噺家と観客の間に結ばれたとき、落語は、ただの「噺」ではなくなる。なんというか、次元や時空を大いに越える。そんな体験を、著者は、この本を通して、巻き起こそうとしている。

 終盤、弟子たちの人生は急展開を見せる。生真面目な兄弟子が生真面目を脱し、甘夏に意地悪だった兄弟子は自らの過去を吐露する。皆、それぞれの人生を生きている。馴れ合わないし、分け合うこともできない。でも、同じ舞台に立つ。一緒にではなく、ひとりずつ、順番に。

 巻末、参考資料のページにに桂米朝や桂枝雀の著書がずらりと並ぶ。向こう岸に行ってしまった師匠たちの生きた言葉が、こういうかたちで新たな読者に伝わる。これもまた、落語愛の、ひとつのあり方なのだ。

(KADOKAWA 1600円+税)=小川志津子

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