7階建てビルの2階に取り残された住民の救助活動を行う福井市東消防署の署員たち=1995年1月20日、兵庫県神戸市

 6434人が犠牲となった阪神大震災は、発生から25年を迎えた。四半世紀の間に、国内では東日本大震災をはじめ地震や豪雨による甚大な被害が相次ぎ、災害に対する備えの拡充や一人一人の防災意識の向上が求められている。阪神大震災は現在の防災の転機になったとされ、福井県からも多くの人が被災地に入った。発生直後に現地で活動した人に当時の状況を振り返ってもらい、「1・17の教訓」がどう今に生かされているかを聞いた。

■最前線での経験、後輩に 住宅地で救出作業

 地震発生から3日後の1995年1月20日。福井市東消防署特別救助隊は神戸市内の7階建てビルにいた。2階部分が押しつぶされ、老夫婦が中に取り残されていた。

 山中裕一郎さん(57)=現福井市消防局消防総務課長=と坂賢一さん(56)=現同消防局救急救助課副課長=ら5人は3階から救出に乗り出した。「ガンガンガン…」。削岩機でコンクリートの床を砕くごう音が響く。鉄筋が現れるとエンジンカッターで切断した。「運よく隙間に残されているかもしれないと思った。一刻を争う状況だった」(山中さん)。隊員たちは休憩もろくに取らず、一心不乱に作業を続けた。

 6時間余りが経過した頃、開いた穴から布団が見え、足がのぞいていた。山中さんが手を伸ばすと、触れた足は完全に冷え切っていた。

 一行は17日夜に救助工作車に乗って福井市を出発し、翌18日午前から神戸市の住宅地で救助活動を行っていた。倒壊した家から1人発見しては隣の家、発見しては隣の家…。皆、柱や梁(はり)の下敷きになり、生存者はいなかった。

 19日夜には、がれきの山となっていた場所で大規模な火災が発生。断水が続く中、ホースをつなぎ学校のプールから水を確保したが、ほどなく尽きた。坂さんは「なすすべなく、燃え広がるのを見ていた」と無念そうに振り返る。

 ほとんど食料を持たず現地入りしたこと、活動期間が決まっていなかったこと、工作車の中で座ったまま寝るしかなかったこと…。課題が多く残った。全国から現地入りした消防隊も同様だった。こうした教訓から消防庁は95年6月、「緊急消防援助隊(緊援隊)」を発足させた。普段は地元消防本部などで活動し、災害時に参集して消火や救助に当たる。2018年4月現在、県内の67隊を含め全国に5978隊が組織されている。

 坂さんは「緊援隊の訓練は、非常に実践的な内容になっている。必ず消火する、助けるという思いでこれからも取り組んでいきたい」と力を込める。山中さんは「自然災害は一つの市や町の消防だけでは対応できないことを実感した。災害現場での経験を風化させないように、若い職員に伝えていきたい」と話している。

■ トリアージ 浸透を実感 救護班で翌日、被災地入り 山本さん(日赤県支部)

 日赤県支部は1995年1月17日の地震発生直後、派遣要請に即座に対応できるよう救護班を編成した。班は医師と看護師長、看護師2人、主事2人の6人態勢で、山本裕行さん(56)=現同支部事務局付部長=は、真っ先に派遣される第1班の主事だった。翌18日に要請があり、救護班は山本さんが運転する救急車で神戸市に向かった。

 夜に被災地にたどり着くと、道路は陥没、家屋は倒壊し無残な姿をさらしていた。高速道路は高架橋がV字に崩れたり、橋脚の根元から横倒しになったりしていた。辺りは停電で真っ暗。未曽有の災害に混乱したのか、何かを叫びながら走っている人がいた。

 神戸市の日赤兵庫県支部に到着したのは午後11時すぎ。すぐさま、隣の赤十字病院で運ばれてくる患者の対応に当たった。

 翌19日には、神戸大を皮切りに大学や小学校に開設された避難所で巡回診療を始めた。

 どの避難所も救護班が来るのは初めてで、被災者が殺到した。「早く診てくれ」とつかみかかる人を、医師がはねのけたこともあった。山本さんら主事はそうした被災者に順に並んでもらったり、不満を漏らす人を「重症の人から診ないといけないんです。もう少し待ってください」となだめたりした。

 混乱が収まると、重症者が残っていないかを確認するため避難所を回った。歩けずにいた高齢の女性を救護所までおぶっていき、診察後にまたおんぶして元にいた場所まで送った。「ありがとう」という言葉とともに流れ落ちてきた涙が、背中にしみた。

 被災地全体では、避難所に設けられた救護所に患者が一時的に集中し、重症度の高い人が治療を受けられずに亡くなったケースが多数あったとされる。状態に合わせて治療の優先度を色分けしたタグを付ける「トリアージ」が、国内で現在の形に統一されたのは震災翌年の96年だった。

 山本さんは「自主防災組織の人が応急手当てを学ぶようになって助かる命は確実に増えた。トリアージに対する理解も広がっており、救護所は当時より活動しやすくなっているはず」と話している。

■センター運営、知見伝える

 阪神大震災当時、「災害ボランティア」という言葉はまだ一般的ではなかった。

 福井市のビル管理会社に勤務していた松森和人さん(59)=現NPO法人「まちの防災研究会」(敦賀市)の理事長=は地震発生から連日、ニュースの映像を食い入るように見ていた。避難所が開設されたのにそこまで物資を運ぶ手段がない、と現地の人がテレビで訴えていた。

 「何もしないでいたら、もやもやしたままだ」。思い立ち、知人からほろ付きの2トントラックを借りた。あちこち問い合わせて、県社協に寄せられた介護用品などを被災地へ運ぶことになった。

 荷台いっぱいに積み込み、1995年1月26日未明に出発。兵庫県に入ると道路脇には遺体があり、広場には被災者があふれていた。「どこへ行っても、がれき、がれき、がれきだった。今でもはっきり覚えている」

 全国から福祉関係の救援物資が集まっていた三田市の老人福祉施設に荷物を下ろすと、その後は各避難所へ医療物資や水を運んだ。30日まで現地で活動したが、ボランティアを受け入れる仕組みはなかった。「てんでんばらばらだった。システムは大事だと思った」と振り返る。

 ちょうど2年後の97年1月、ナホトカ号重油流出事故が発生。松森さんは、全国から坂井市三国町に集まったボランティアの配置や、重油を採取する方法の指導などを担った。災害ボランティアセンターの一員としての最初の体験だった。以降、2004年の福井豪雨など県内外の被災地でボランティアセンターの開設、運営に従事。10年には「まちの防災研究会」を発足させ、減災研究や防災担い手の育成に取り組む。

 松森さんはボランティアセンターを機能させるためには「被災者に2次被害を出さないという目的を明確にすると、いち早い復旧が必要だからボランティアの受け付けにかかる時間をできるだけ短縮させるといった、今すべきことが分かる」と指摘。ボランティアを受け入れる体制はこの四半世紀で整備されてきたとし「『たまたま1日空いているから』といったような、気軽な感覚でボランティアに参加してほしい」と呼び掛けている。

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