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県内鉄路駅巡り

 地球温暖化、ガソリン値上げが進む中、公共交通機関、特に鉄路の重要性が高まりつつある。学生、お年寄りら地域の大事な足としての鉄道を、駅という視点で紹介する。


2008年11月15日(土曜日)

 (下) 敦賀港 
   敦賀市金ケ崎町

 
市民の宝 思い出満載
「花火列車」毎年1000人親しむ
 
 敦賀港駅から敦賀駅までの敦賀港線(2.7キロ)では、今では貴重になった特殊なシステムで列車が運行されている。
 タブレット閉(へい)塞(そく)式と呼ばれ、信号機のない単線内で2本の列車が一度に走らないようにする仕組みだ。運転士は、タブレットと呼ばれる直径10センチほどの円盤形の金属を持つ。いわば通行証で、これを両駅にあるタブレット閉塞機で管理する。いずれかの駅で閉塞機からタブレットを取り出すと、再びどちらかの駅でタブレットを閉塞機に収めるまで、別のタブレットは取り出せない。常に外に出ているタブレットは一つとなり、列車1本のみを走らせることになる。

敦賀港駅

敦賀港駅を発車するディーゼル貨物車

 「関西やこの辺一帯にはもう、どこにもないかもしれませんね」と山口武志駅長。列車出発直前、タブレットを、くずんだ赤色の上塗りがいかにもレトロな雰囲気の機械から取り出すと、キャリアと呼ばれる輪の付いた革のケースに入れ、運転士に手渡した。
 日本海側で最も早く鉄道が通り、D51導入や国際列車の運行など数々の先駆的な役割を果たした「鉄道のまち」のお宝は、もう一つある。駅舎の裏にある赤レンガ造りの「ランプ小屋」だ。列車が後方に存在を知らせる照明となったカンテラ用の燃料を保管するために、主要駅に設けられていた。

タブレット閉塞機

単線で列車の安全運行を支えるタブレット閉塞機。山口駅長が手にしているのがタブレット。革製のキャリアに収められ、運転士に渡される

 1882年の開業当時の建物は、現存するランプ小屋で日本最古。レンガのあちこちに見える「平」や「八」の文字は、レンガを作った職人の名前という。古き良き時代の香りを今に伝える。地元の北野新二さん(77)は「敦賀を支えてきた重要な財産」と胸を張る。
 北野さんは、1999年から2006年まで、開港記念や観光物産イベント、花火大会時に特別に旅客列車が運行したことが思い出深いという。04年、SLが2日間で6往復走った時は、計約4000席が早々に完売。同年からの「花火列車」は毎年約1000人が利用し、貴重な機会を楽しんだ。「現代に受け継がれた市民の宝だと思います」
 しかし、JR貨物はこのほど、敦賀港線を来年3月に運行停止する方針を固めた。コスト削減などが理由だ。

ランプ小屋

駅舎裏に現存する日本最古のランプ小屋

 「普段は関係なくても、時には一般市民が参画できる交通基盤は貴いもの。もっとチャンスを与えてほしい。もし廃線となれば、レール管理の問題などから、花火列車などもそう簡単に運行できなくなってしまうのではないか。それはとてもさみしい」と北野さんは漏らす。
 「なぜ今、廃線にしなくてはならないの?」と言うのは市内の50代の主婦。「二酸化炭素排出の問題が叫ばれ、鉄道などに再度スポットライトが当たっている中で、もったいない。ここまで頑張ってきたのに残念。港も整備され次第に大きくなっているところ。港を大いに活用し、相乗効果でもり立てられないのでしょうか…」。みすみす宝を失うことへの無念さをにじませた。

2008年11月14日(金曜日)

 (上) 敦賀港 
  敦賀市金ケ崎町

 
世界の人、物 往来120年
往時1日1000トン、商社林立
 
 県内の鉄道の駅を順に紹介している「駅巡り」企画。嶺南のトップは、存続問題がわき上がった敦賀市の敦賀港線。2回にわたり、歴史や敦賀港駅の魅力を伝える。
 
 午後3時9分。「出発進行、よし!」の駅長の声と旗の合図とともに、オレンジ色の機関車につながれた9両の貨車の列が“駆け足”を始めた。敦賀港の静かな駅から荷物の詰まったコンテナが全国各地へと運ばれる。

大正初期の金ヶ崎駅

大正初期の金ヶ崎駅(手前)と欧亜国際連絡列車=1915年鉄道院発行「旅行案内」(敦賀市の田中完一さん所蔵)

 敦賀港駅は1882年に開業した。日本初の鉄道が新橋(東京)―横浜間に敷設されてから、わずか10年後のこと。日本海側最初の鉄路の終点となった。当時は「金ケ崎駅」と呼ばれた(1919年に現在名)。
 15年後の1897年には旅客の扱いを中止。以来、貨物だけとなっていたが1912年、敦賀港の「開港外貿易港」指定などを背景に活性化。ロシア航路とシベリア鉄道を経由して日本とヨーロッパを結ぶ欧亜国際連絡列車が運行し、人々の往来が再び始まった。
 翌13年には外国船が着く岸壁に旅客専用の駅が設けられ、周辺には税関や領事館など政府機関や商船会社がひしめき合った。駅舎はとんがり屋根の洋風の建物で、当時としては珍しくレストランがあり、外国人たちでにぎわった。国際連盟脱退を表明し、戦争への道を突き進むきっかけをつくった松岡洋右全権一行(32年)、杉原千畝が発給した「命のビザ」を持って逃れてきたユダヤ人難民ら(40年)もこの駅を通った。

現在の敦賀港駅

現在の敦賀港駅。木造平屋建てで1918年に建てられた

 国際列車の運行は大戦の勃(ぼっ)発で40年で取りやめられた。その後すぐに同駅に勤務した遊津喜由さん(81)=敦賀市元町=は「石炭や大豆などが港から運び込まれ、一日1000トンもの荷物を扱っていた」と振り返る。現在の輸送量は1年間で5万トンほどだから往時のにぎわいぶりが想像できる。元金沢鉄道学園長で日本海地誌調査研究会の井上脩会長=同市野神=は「終戦ごろの敦賀港駅には、最高で120人の職員が働いていた。貨物と人でごった返していたようだ」と話す。
 現在は一日1往復の運行となった。行きは敦賀駅から北陸線に入り、福井方面に向かう。9両のうち4両は南福井駅まで、残りは途中駅で荷物を積んだり、降ろしたりしながら進む。上越、信越の各線を通って2両ずつは宇都宮駅(栃木)と越谷駅(埼玉)、1両は熊谷駅(同)まで行く。米原方面への便は2004年になくなり、大阪への荷は南福井で、名古屋への荷は金沢で、それぞれ中継するという。

再現された敦賀港駅舎

金ケ崎緑地に再現された敦賀港駅舎。当時は港の岸壁に税関や商社の建物ともに並んでいた=同市港町

 「幾つもの時代を経て状況は変わった。今はにぎやかさはないが、駅一帯の風景はあまり変わっていない」と遊津さんは言う。岸壁の旅客専用の駅は国際列車廃止後、港の改修に伴い壊されたが、1918年に建てられ戦災の被害を免れた現在のかわら屋根のシンプルな港駅舎は、なんと90歳。今なお列車の運行を見守り続けている。

敦賀港駅周辺の地図

 旅客専用駅は99年、開港100年を祝って近くの金ケ崎緑地に復元され、同港や鉄道の資料展示が行われている。夏の花火大会では市民を乗せた特別列車が走るなど駅とレールは新たな形で受け継がれ、港とともに世界をつないだ敦賀の歴史を刻み続けている。

2008年11月13日(木曜日)

 (番外編)
  幻に終わった「越美線」

 
工費ばく大需要見込めず 岐阜と直結断念
 
 九頭竜湖駅は当初、終着の予定ではなかった。旧国鉄は、越前と美濃(岐阜県)を結ぶ「越美線」を計画し、その一部として「北線」を建設。しかし、越美線は全通を見なかった。

九頭竜湖駅

九頭竜湖駅に到着した列車。手前の岐阜方面を走ることはなかった=大野市朝日

 計画は大正時代に練られた。旧国鉄は1934年、美濃太田(美濃加茂市)―北濃(郡上市)間を越美南線(現長良川鉄道)として開通させた。一方、越美北線は戦争や戦後の混乱にもまれて、72年にようやく九頭竜湖までが開業。
 越美線全通まで、九頭竜湖―北濃間約27キロを残すだけとなった。しかし、国鉄改革のあおりを受け、80年、県境を越える工事計画は凍結された。ばく大な工費がかかる上、輸送需要が見込めない状況が突きつけられ、接続実現への道を探っていた同盟会や協議会も徐々に解散していった。
 鉄路の代わりに、九頭竜湖駅から長良川鉄道の美濃白鳥駅までJRバスが走っていたが、乗客が少なく2002年9月に廃止された。
 下出定幸さん(77)は駅前に住み、移り変わりを見てきた。「和泉の人口が減って、列車に乗る人は少なくなった。道の駅ができてにぎやかにはなったけど」と話す。

JRバス大野線

九頭竜湖駅と長良川鉄道美濃白鳥駅(岐阜県)間を走り、「越美線」の代役を務めていたJRバス大野線=2002年8月、九頭竜湖駅(大野市の木下大悟さん提供)

 春の新緑まつり、秋の紅葉まつりのときは、臨時列車まで満杯になるほど多くの人が列車でやってくる。しかし、路線全体の乗車人数は20年前に比べて半分近くにまで落ち込んでいる。福井豪雨後、全線運転再開1年を迎えても豪雨前の水準には戻っていない。
 「明日へ走れ! 越美北線」のヘッドマークを付け、きょうも列車は走る。
 2010年、越美北線は開業50周年を迎える。(おわり)

2008年11月12日(水曜日)

 (25) 九頭竜湖 大野市朝日

 
最東端 観光の“いずみ”
 
 越前下山駅を出た列車は、トンネルを二つくぐり、速度を落とす。目の前の九頭竜湖駅に「キハ120形」は、ゆっくりと止まる。レールの“端”があるのが、終着の証しだ。起点の越前花堂駅から52.5キロ、福井駅からは55.1キロの旅は、旧和泉村の中心部にたどり着く。

九頭竜湖駅

ログハウス風の外観が観光客にも人気の九頭竜湖駅=大野市朝日

 ログハウス風の駅舎は1987年10月、駅の機能を備えた旧和泉村の観光物産センターとして完成。その後、両隣に特産品直売所とふれあい会館が整備され、現在は公園なども入れた5施設で大野市の「道の駅九頭竜」を構成。有限会社いずみが指定管理者となって運営している。
 簡易委託発売駅の九頭竜湖駅では「いずみ」の笠松明さん(69)=朝日=が乗降客に応対する。長く都会で過ごした笠松さんは「和泉は静かでいいところ。木の駅も雰囲気があっていい」と良さをしみじみ感じている。切符や定期券を売るほか、本県最東端駅への「到着証明書」を渡しているのも笠松さんだ。
 九頭竜湖駅の昨年度の一日平均乗車数は30人。しかし、中京方面からの観光バスが休憩に止まり、駅周辺は年間70―80万人が訪れるという。昇竜マイタケ、穴馬かぶらなど特産品とその加工品、弁当などがそろう直売所は人気があり、特に紅葉シーズンは観光客でごった返す。

九頭竜湖駅周辺の地図

 「ここはJRの駅もあるのね」。“本当の駅”の存在を知らずにやってくる人は意外に多い。もの珍しさが手伝って、停車中の車両は記念撮影の被写体となる。駅前の恐竜モニュメントは、列車がやってくる時間帯だけは主役を譲っているようだ。
 九頭竜湖駅は越前大野駅と同様「中部の駅百選」に選ばれている。

2008年11月8日(土曜日)

 (24) 越前下山 大野市下山

 
 100メートル急こう配 山貫く
 
 列車は季節の風景を車窓に映しながら、川のうねりや山々に沿って走ってきた。しかし、勝原駅を出ると雰囲気は一変する。荒島岳すそ野のトンネルに潜ると、約8分間、外の景色を見られない。「この暗闇はいつまで続くのか」。ようやく抜けたところが、越前下山駅だ。
 勝原―九頭竜湖間は1972年12月15日、延伸開業した。「より早く目的地へ、という国鉄の意図が強まった」(JR社員)ため、勝原以東は山を貫く最短ルートで建設された。

越前下山駅

トンネルとトンネルに挟まれたわずか300メートルほどの谷間にたたずむ越前下山駅=大野市下山

 勝原―越前下山間は、白谷トンネル(809メートル)、スノーシェッド、荒島トンネル(5251メートル)の順に続く。谷間を縫うように走る国道158号は12キロあるが、レールは6.5キロしかない。100メートルのこう配をほぼ直線で突き進む。
 駅が近くなると、運転士は、急こう配の終わりに現れる駅に列車を止める難しさに気を張るという。また、越美北線の除雪経験があるJR福井工務管理センターの道坂智係長(49)は「冬の下山は除雪でも頭を悩ませる」と苦い顔。

越前下山駅周辺の地図

 渓谷の線路はいったん除雪するとそこが吹きだまりになり、すぐ埋まってしまうという。「特徴を頭に入れ、経験を基にラッセル車を出していた」と苦労を語る。
 近くに住む嶋光義さん(62)はホームの除雪を担当。「昼休みに勤務先から帰ってきて雪かきしたこともあった」と振り返る。
 周辺の下山集落の人口は減っているが、近くに九頭竜温泉「平成の湯」があるため、乗降客は絶えない。年間2000人ほどが列車でやってきて、待機していた送迎車に乗り換えて温泉に向かう。平成の湯に勤める伊藤太一さん(70)は「年配の人がたくさん来てくれる。車を運転しなくてもいいから便利なのでは」と話していた。
 駅の先にはまたトンネル。300メートルほどのトンネルのはざまにある駅を出て、列車は終着へ向かう。

2008年11月7日(金曜日)

 (23) 勝 原(下) 大野市西勝原

 
登山客迎える桃源郷
 
 蒸気機関車が走らなくなっても勝原駅には多くの人がやってきた。カドハラスキー場が近いため、多くのスキーヤーが乗降。ブームにも乗って1980年ごろまでは盛況だったという。当時を知る廣瀬利昭さん(80)は「駅からスキー場まで長い列ができたもんだ」と振り返る。

勝原駅

ハナモモが線路のそばに鮮やかに咲く勝原駅=4月22日、大野市西勝原

 集落のほとんどが民宿で、林間学校の会場にもなっていた。今ではスキー客は減ったが、スキー場を起点に荒島岳登山を楽しめるため、登山客は増えている。春の山開きを過ぎると、リュックサックを背負った乗客が目立ち始める。駅には入山届け出書が置いてある。
 また近年、勝原はハナモモの花で知名度を、さらに上げている。線路脇の土手を中心に春にはピンク、白のあざやかな花が咲き乱れ、“桃源郷”とも表現される。ハナモモを植え始めた林しのぶさん(82)は「こんなに美しくなってうれしい」と笑顔。4月には地元有志で植樹もし、輪が広がっている。
 西勝原を含む五箇地区には、四季折々の風景と地元の温かい歓迎の心に引かれ、人が集まる。駅の隣の大野市五箇公民館は、ファンたちの絵画や写真などでいっぱいだ。
 越美北線は時代や人の移り変わりを見続けている。

2008年11月5日(水曜日)

 (22) 勝 原(上) 大野市西勝原

 
清流、岩肌 随一の絶景
かつての終着 SLも
 

九頭竜川に架かる橋りょう

撮影スポットとして人気がある九頭竜川に架かる橋りょう。紅葉に囲まれ列車は走る=大野市西勝原

 柿ケ島駅を出た列車はしばらくするとトンネルに入る。狭い暗闇を抜けると、“越美北線随一の絶景”が現れる。九頭竜川を渡る全長128.29メートルの第2九頭竜川橋りょう上。視界を遮る鉄材がない構造のため、車窓には、眼下の清流、切り立った岩肌、山の木々がはっきりと映る。
 「あまりにきれいな風景なので、乗客から歓声が上がることもありますよ」と運転士の水上係長(51)は話す。橋の先が時速25キロの速度制限区間で、列車はゆっくりと渡る。

勝原駅周辺の地図

 勝原駅は西勝原集落にある。越美北線開業から12年後の1972年12月まではここが終着だった。
 かつて、転車台(ターンテーブル)がホーム東側にあり、蒸気機関車(SL)の向きを変えていた。普段は蒸気を利用して回していたが「冬場は人力のときもあった。大変だったよ」と、旧国鉄福井機関区に務め、SLを運転していた森本忠男さん(83)=鯖江市幸町2丁目=は懐かしく思い出す。

回転する蒸気機関車

勝原駅の転車台に載って回転する蒸気機関車=昭和40年代(林小太郎さん提供)

 駅近くの林小太郎さん(67)が台で回る姿をカメラに収めたのは「もうすぐSLが走らなくなる」と聞いたためだった。
 和泉地区のダム建設などに資材を運んだSLは73年、姿を消した。

2008年11月1日(土曜日)

 (21) 柿ケ島 大野市柿ケ嶋

 
九頭竜の流れ見守る
 
 杉林に入り込んだと思ったら急に鉄橋が現れる。九頭竜川に架かる「第1九頭竜川橋りょう」に差し掛かるのとほぼ同時に、駅接近を知らせるアナウンスが流れる。渡れば、すぐに柿ケ島駅。

柿ケ島駅周辺の地図

 下唯野―柿ケ島間は、わずか1キロ。1分30秒ほどしかかからず、越美北線で最も短い。しかし、雄々しい流れの九頭竜川が互いを隔て、古くから文化圏、生活圏が異なってきた。鉄道や橋ができ、簡単に行き来できる今も小学校区などは別だ。
 行政区は「柿ケ嶋」と書く。長く「島」「嶋」が混在していたといい、駅名はその名残だ。「どちらにしても“シマ”は、川のそばでしばしばみられる特徴的な地名」と加藤守男・大野市史編さん室長。柿ケ嶋は本当の“島”ではないが、山と九頭竜川、支流の旅塚川に囲まれた場所だ。
 駅のそばに作業場を持つ農家の村岡孝治さん(50)=柿ケ嶋=は「柿ケ嶋はなにもない素朴な田舎」と笑う。しかし、アマチュアカメラマンは旅塚川のこいのぼりと列車、ススキと列車、九頭竜川と列車など穏やかな風景とローカル線の共演を撮りに訪れている。

柿ケ島駅

ススキが広がる九頭竜川を渡るとすぐに柿ケ島駅(左奥)。列車は九頭竜峡へと向かう=大野市下唯野から望む

 公務員の山田重信さん(57)=同=は、越美北線が開業した1960年12月15日の列車に、阪谷小の同級生たちと柿ケ島―福井間を往復したことを懐かしく思い出す。高校卒業以降30年ほど通勤に使い、本紙への寄稿エッセー「北風南風」にも越美北線をたびたび登場させた。「自分の集落を通るし、愛着がある」。鉄橋を渡る姿や国道158号から駅と阪谷方面を望む景色が大好きという。
 列車は九頭竜川と走っていく。

2008年10月30日(木曜日)

 (20) 下唯野 大野市下唯野

 
平地と斜面の間縫う
 
 越前富田駅を出ると、左手に穏やかな田園風景が広がる。一方、右側は草木が茂る斜面が視界をふさぎ続ける。平地と壁のような斜面が隣り合う地形だ。「大野市史自然編」によると、田園の向こう側に流れる九頭竜川がはんらんして作り出したとされる。列車が斜面に沿うように走り、下唯野駅に到着する。

下唯野駅

下唯野駅が建設される直前の様子

(上)斜面の際にたたずむ下唯野駅=大野市下唯野(下)下唯野駅が建設される直前の様子。駅は中央の線路を渡る道のすぐ奥にできた=1960(昭和35)年7月(伊藤重蔵さん提供)

 伊藤重蔵さん(61)=下唯野=は、越美北線開業直前の写真を持っている。写真好きの父親が撮りためた中にあったという一枚は、レールが敷かれているもののホームと駅舎がない。50年ほど前の写真だが、特徴的な地形と坂道の様子から「駅の場所だと、はっきり分かる」。大野市街地の高校へ通学するのに、列車に乗ったことを懐かしく思い出している。

下唯野駅周辺の地図

 地元住民だけでなく登山者も利用する。近くにある「帰山商店」には、荒島岳の中出(なかんで)コースを下りてきた客が訪れる。商店の帰山寿美枝さん(下唯野)は、列車待ち時間に寄る人を温かく迎え入れる。「『ここに店があって助かった』って喜んでくれてねえ」。飲み物やアイスクリームを買い求める客と、たわいないおしゃべりを楽しんできたという。しかし「最近は店に来る登山客が減った」とさみしがる。
 ホームそばに育つ八本のクリの木に見送られ、列車は出発する。

2008年10月28日(火曜日)

 (19) 越前富田 大野市上野

 
小規模 音で“存在感”
 
 県道五条方松原出勝山線の新しい陸橋をくぐると、ひっそりとたたずむ越前富田駅に到着する。

越前富田駅周辺の地図

 ホームの長さは30メートルほどしかない。駅舎も越美北線最小規模。陸橋、斜面の上の尚徳中、上野集落に囲まれ、分かりづらい。車で駅を探しに来たなら、しばらくはうろうろしてしまう。そばの道路に誘導看板もない。
 「列車の音がしなかったら、こんなところに駅があるなんて誰も思わないだろうね」と、近所の住民は苦笑する。
 旧富田村にあるから越前富田駅。富田地区、富田公民館、富田小―。市民は「とみた」と発音する。しかし、時刻表や駅名標をよく見ると「えちぜんとみだ」と表記されている。さらに不思議なことに、車内アナウンスは「次はえちぜんとみたです」。「理由は分からないですね」とJR社員は首をかしげる。
 “隠れ家的”で、謎もある駅。そばに住む女性(82)=上野=は「ガタンゴトンという音は時計代わり。生活の一部になっています」と話し、移動手段が車中心になった今も愛着があるようだ。

越前富田駅

県道の陸橋(左)と草むらに囲まれ、ひっそりとたたずむ越前富田駅=大野市上野

 徒歩圏内に尚徳中、富田小がある。勝原や柿ケ島方面からの通学駅だったころもあるが、少子化と列車本数の減少が原因で「今は誰も使っていない」(市教委)。
 駅から尚徳中に続く道路脇で商店を営んでいる神橋美代子さん(80)=土打=は「列車に乗ってやって来た子が連れ立って歩く様子が懐かしい」と振り返る。また、父親がホームの除雪を担当していて、苦労話も聞いたという。「雪を捨てる川が近くになく、大変だったらしい」
 雪の話が出てきた。列車は確実に山へ向かっている。

2008年10月25日(土曜日)

 (18) 越前田野 大野市田野

 
地元の熱望実り開業
 
 市街地に別れを告げ、九頭竜川支流の真名川を渡る。田園にぽつんとある越前田野駅に降り立つ、大野盆地の周囲の山が一望できる。百名山の一つ、荒島岳の雄々しい姿も望める。

越前田野駅周辺の地図

 「えちぜんたの」。ホームには、ひらがなで大きく書かれた国鉄時代の駅名標が今も残っている。越美北線のほとんどの駅より4年遅い、1964年開業。越前大野―越前富田間の4.3キロの間に、地元の熱望でできたいわゆる「請願駅」だ。
 富田重三郎さん(92)=田野=は、当時田野区長として請願運動の先頭に立った。井ノ口や麻生嶋など周辺集落に協力を願って奔走したという。「駅建設のため、集落の共有地を売って、当時としては大金の50万円ほどを都合した。苦労した」としみじみと振り返る。

越前田野駅

百名山の一つ、荒島岳を望む越前田野駅=大野市田野

 駅が完成したときは、皆もろ手を挙げて喜んだという。息子の重一さん(56)は現在の田野区長。「地元の思いで完成した駅だから、もっと乗らないといけないな」とポツリ。しかし、列車の本数は福井―越前大野間のほぼ半分。「やっぱり使いづらい」と残念がる。
 昨年度の1日平均乗車人数は8人。越前大野駅の263人には遠く及ばないが、学生や高齢者など利用者数はほぼ一定だ。60歳代の女性=田野=は「車の運転ができないから、列車は大切な足。絶対必要」と買い物や旅行などのたびに乗っているという。
 列車は東へ進む。

2008年10月24日(金曜日)

 

 (17) 越前大野 大野市弥生町

 アナログの名物活躍

 越前大野駅は鉄道ファンの心もつかんでいる。JR西日本管内唯一の「スタフ」と金沢支社でここだけの「腕木式信号機」。名物が2つもあるためだ。

運転士にスタフ渡す

越前大野駅の当務駅長(右)は到着した九頭竜湖行き列車に入り、指さし確認をして運転士にスタフを渡す。このスタフは開業時から使われている

 スタフは直径10センチの金属製の円盤で、約50センチの輪っかに付いた革のポケットに入っている。持っている運転士だけが先へ進める通行手形のようなもの。2本以上の列車が入ると衝突・追突する恐れがある単線区間に1つだけ存在する。安全のための原始的だが確実な策だ。
 「スタフ九頭竜湖」「三角」「三角よし」。九頭竜湖行きの列車が着くと、当務駅長が運転士と指さし確認して渡す。「三角」というのは、円盤に開いた穴の形状だ。
 鉄道ファン「鉄ちゃん」は、電気で自動的に列車進入を管理する方式が一般化した現代に残るこの”アナログ”方式に引かれてやってくる。

腕木式信号機

JR金沢支社唯一の腕木式信号機。信号を離れた場所から操作していたてこ(レバー)も隣りにある=越前大野駅

 線路脇に立つ腕木式信号機もアナログの代表格。腕木と呼ばれる紅白の板の角度が「停止」「進行」を表す。大野駅では1993年まで5機が活躍。役目は終えたが、うち1機が残っている。
 駅員の存在も頼もしい。大雪や豪雨を乗り越えて鉄路を守るチームワークが、人間味を醸し出す。「親切な対応がうれしい」と市民の信頼は厚い。
 近くに住む木下大悟さん(26)=日吉町=は、大学時代の研究に越美北線を取り上げるほど駅とレールに親しんできた。「奥越の拠点駅ながら、温かみがあって田舎らしさがあふれている」と愛着たっぷり。
 北野進一駅長(48)は「地域に支えられて存在する。こんなに人とのつながりが深い駅は初めて」と話す。
 越美北線で最も客が多い。福井豪雨で落ち込んだものの、次第に持ち直し、昨年度は1日平均263人が利用。しかし95年のピークに比べれば半分以下にとどまる。

2008年10月23日(木曜日)

 (16) 越前大野 大野市弥生町

 
清水、鐘、水車が出迎え
駅舎内 陳列にぎやか
 
 北大野駅を出ると、いったん上り坂になり、3本の道路が線路の下をくぐる。人や自動車だけでなく、かつては大野まで延びていた京福電鉄越前本線もここで交差していた。

越前大野駅周辺の地図

 「間もなく越前大野、越前大野です」。越美北線唯一の有人駅で出迎えてくれるのは、駅員だけではない。ホーム端の「駅清水(しょうず)」は地下水があふれ出し、名水の里をアピール。隣では旅の安全を願う釣り鐘が鳴り、改札口近くではサトイモを洗う水車「芋(いも)車(ぐるま)」が回る。にぎやかな駅のあちこちを興味深く眺める観光客も珍しくない。

越前大野駅

釣り鐘(右)や巨大なちょうちん(左)、花のプランターなどさまざまな趣向で客を迎える越前大野駅=大野市弥生町

 季節ごとの花も駅を彩る。大野地区少年警察協助員会は毎年、児童養護施設の子どもと構内の花壇作りに取り組んでいる。三嶋美智子会長は「多くの人の目に触れる場所だから子どもたちは一生懸命植える。育つのを見るのも楽しいようです」と話し、JR社員も応援している。
 一方、駅舎内は陳列品がいっぱい。越前大野城や七間朝市などを案内する観光パンフレットや特産品紹介コーナーのほか、市民の絵や川柳なども展示されている。

駅舎内

窓口やキオスクのほか、花や特産品の展示ケース、市民の絵画などが並び、にぎやかな駅舎内

 木製のベンチが並ぶアットホームな雰囲気の駅舎内で、客に明るく「いらっしゃい」「元気にしてた?」と話し掛けるのは、15年前からキオスクに立つ帰山艶子さん(糸魚町)。「言わなくてもほしい品が出てくる」と感心する常連は多い。“駅のお母さん”のような存在で「ただいま」「また来たよ」と声を掛ける市民や観光客の姿も。「お客さんと話をするのが楽しい。できるだけ長く続けたいです」と笑顔を見せた。
 越前大野駅は地域に溶け込んだ趣のある駅として、国土交通省の「中部の駅百選」に選ばれている。

2008年10月22日(水曜日)

 (15) 北大野 大野市中野

 
住宅街の中に近代風
 
 牛ケ原駅から北大野駅への1.8キロは直線。列車は風を切って進む。

北大野駅周辺の地図

 北大野駅は大野市街地が広がってきたことに対応して、1968年設けられた。勝原―九頭竜湖間を延伸する前までは最も新しい駅だった。早く完成したほかの駅に比べ、ホームは長くて奥行きがあり、待合室も広々としている。駅前の駐車場から階段を上ったところにホームがある形式も「近代的な特徴」(JR社員)という。
 中心市街地のほぼ北端に位置する駅の周囲は住宅街で、利用者は学生や会社員、高齢者など幅広い。近くに住む増田真奈さん(16)=中野=は「北大野駅はめっちゃ地元。昔から福井へ遊びに行くときは越美北線と決まっている」と話す。下庄小時代には駅の掃除など奉仕活動に訪れたといい、長く親しんでいる。

北大野駅

幅広い層の利用者がいる北大野駅。駅前には市が整備した57台分の無料駐車場がある=大野市中野

 駅前には市が98年に整備した57台の駐車場がある。パークアンドライド方式の拠点で、平日は多くが埋まっている。福井市に通勤して5年目という島田英夫さん(48)=城町=も利用者の一人。「ガソリンが高いからか、最近利用者が増えた」と分析する。「今後、3セク化の話も出るかもしれない。いずれにしても、もっと乗らなきゃ」と訴える。
 ホームのそばにはトイレもある。車両にトイレが備わっていなかったころ、美山駅からここまでは“空白地帯”。「北大野まで我慢して」が運転士の決まり文句だったという。ここでお世話になった人も多いのでは。
 ホームには近隣住民が手入れする花のプランターが並ぶ。季節の香りに包まれながら、列車は北陸の小京都の中心部へ向かう。

2008年10月21日(火曜日)

 (14) 牛ケ原 大野市牛ケ原

 
大野の玄関 花が歓迎
 
 「千分の二十五」。1000メートル進むと25メートル上ることに相当する。越美北線で最も急な坂を上って列車は進み、福井市と大野市の境、花山峠にある402メートルの坂戸トンネルを抜けた。眼前に大野盆地が飛び込んできた。

牛ケ原駅

大野盆地の東、ソバ畑や田が周囲に広がる牛ケ原駅。駅舎の左奥に見えるのは亀山=大野市牛ケ原

 山あいから広々とした盆地へ、がらりと変わる風景に「大野に来た、と少し特別な感覚になる」。若いころから越美北線の運転士を務める福井地域鉄道部福井運転センターの水上係長(51)は毎回、そう思うという。右手に亀の甲羅のような形の亀山が見え、頂上には越前大野城のシルエット。そしてゆっくりと田んぼの中の牛ケ原駅に着く。
 ホームへのスロープが今年春、付け替えられた。ホームに出入りできる唯一のルートだが、これまではそばの踏切の内側を回っていた。危険だと運転士らから声が上がり、新設された。「安全になってよかった」と喜ぶ住民は多い。
 駅のある乾側地区はシバザクラを生かしたまちづくりが盛んで、ホーム下の土手も春には鮮やかなピンク色に染まる。「乾側をよくする会」の花のジュータン実行委が3年前から株を植え、今では350平方メートルにまで広がった。

牛ケ原駅周辺の地図

 小林時彦会長(72)=牛ケ原=は「鉄道の大野の玄関口をもっと美しく、との声から始まった。これからも景観をよくしたい」と熱く語る。今年はさらに150平方メートル広げ、11月にはそこに新たな株を植栽する予定だ。
 春はシバザクラの“カーペット”が出迎え、秋は稲穂やソバの花が駅を囲む。季節の彩り豊かな駅を過ぎ、列車は市街地へ真っすぐ進む。

2008年10月16日(木曜日)

 (13) 計 石 福井市計石町

 
今も残る「峠の茶屋」
 
 旧美山町内を行く越美北線は、国道158号と隣接しながら東へ進み計石駅=★ふくい知りたい=に到着する。国道をはさんだ真向かいには「たばこ」「塩」「酒」の看板に彩られた「水本商店」。かつては大勢の人が利用し、今はにぎわいが遠のいた“足”と店。大野市に入る手前の福井市最後の駅には、懐かしの風情が漂う。

計石駅周辺の地図

 商店は看板の商品だけでなく、お菓子にジュース、油や洗剤など一通りそろった村の何でも屋さん。かつては大野へ向かう花山峠を徒歩や馬車で越える人たちの峠の茶屋だった。現在の国道158号が通った昭和20年代に、集落内を通る街道沿いから移ってきた。計石駅は1960(昭和35)年に開業。商店を営む水本豊さん(80)は店の目の前にできた駅と越美北線をずっと見てきた。
 開業したばかりの昭和30、40年代。「通学の子どもだけでも、何十人かいたと思う。にぎやかでした」と水本さん。計石はもちろん、隣接する野波や川上集落の中高生が計石駅から学校へ通った。自転車やバイクでやってくる生徒たちに水本さんは「裏に置いときね」。いつしか商店裏は駐輪場になった。
 それが今では「子どもも減ったし、学校の時間にもなかなか(ダイヤが)合わないようだ」とあって、乗車人員は1日平均で10人前後まで減った。

計石駅

国道158号をはさんだ向かいに商店がある計石駅=福井市計石町

 同じように「商売も厳しくなりました」。それでも「もうけよりも、村の人の役に立っているという思いがあった。なるべく灯は消したくない」と続けてきた。
 一家に1台以上乗用車があり、少し遠くのスーパーにも気軽に行けるような時代になった。“便利”さと反比例するように、にぎわいを失った。越美北線と似た境遇をたどってきた店で、水本さんは今日も汽車を見守っている。
 
福井知りたい
計石(はかりいし)
 
 通称・羽生街道(現国道158号)沿いの集落で、江戸時代から昭和初期まで福井―大野間の物資輸送とともに発達。かつては秤石と書いた。地元白山神社に石ますが保存されており、美山町史などによると、このますが集落名の由来とする説もあるが、定かではないという。

2008年10月13日(月曜日)

 番外編 豪雨禍から復旧

 
ありがたさ再確認
 
 2004年7月18日。沿線住民にとって忘れられない日となった。未(み)曽(ぞ)有(う)の被害をもたらした福井豪雨は、足羽川に架かる7つの鉄橋のうち五つを押し流した。無残な姿に、鉄道マンも住民も「越美北線はもう廃線かもしれない」との思いをよぎらせた。全面復旧まで約3年を要した被害は、代行バスを利用した住民らに越美北線のありがたさを再確認させる契機にもなった。「川と走る越美北線」を襲った豪雨禍を写真で振り返る。
 

第1足羽川橋りょう

激流で破壊された第1足羽川橋りょう。レールが宙づりの無残な姿に鉄道マンも「越美北線はもう廃線」との思いをよぎらせたという=2004年7月19日

 
 
 

第3橋りょう

国道158号近くの第3橋りょう。多くの住民が心を痛めた=04年8月17日、福井市田尻町

 

生まれ変わった第1橋りょう

三角形格子状のトラス構造に生まれ変わった第1橋りょう。橋脚は洪水時にかかる圧力を減らすため、両端を除き6本から1本になった=7日、福井市安波賀町

 
 
 

モニュメント

第7橋りょうの橋脚を福井豪雨の象徴としたモニュメント。被災からちょうど1年後、除幕式が行われた=05年7月18日、福井市獺ケ口町

 
 

越美北線を襲った福井豪雨

 

全線復旧を祝ったセレモニー

福井行きの越美北線を送り出し、全線復旧を祝ったセレモニー=2007年6月30日、JR美山駅

 
 

2008年10月10日(金曜日)

 (12) 越前大宮 福井市大宮町

 
自然が似合う中間点
 
 目の前は秋色の田園、背後は濃緑の山。雄大な自然が似合う、小さな無人駅舎が越美北線の中間点だ。23駅(福井駅を含む)のうち12番目として、福井と大野を今もしっかり結ぶこの駅では、交通の歴史が垣間見られる。

越前大宮駅の地図

 駅がある大宮町は、何百年も前から福井―大野の人の往来が盛んな地域。源義経が平泉に逃れる際に立ち寄ったという言い伝えも残る。昭和初期までは商人も住み、荷物を背負って大野へ向かう歩(ぼっ)荷(か)の姿も頻繁に見られた。

越前大宮駅

福井―九頭竜湖の中間点、越前大宮駅に止まる列車(正面が駅舎)=福井市大宮町

 そんな地域にとって待望の鉄道敷設だった。列車が走り出したのは1960(昭和35)年。近くに住む高瀬信夫さん(74)は当時を振り返る。「村人は『生活がどんなに便利になることか』と鉄道の完成を夢見ていた。開通時は列車に手を振って祝い、皆思い思いに列車に乗った」。
 妻の春子さん(71)も続ける。「中はぎゅうぎゅう詰めの超満員。赤ちゃんがつぶされるかと心配だったほど」とにぎわいぶりを思い出す。

黄色の特別列車

国道と並走する越美北線。黄色い特別車両は年に2回、レール点検のため走る=福井市縫原町

 しかし活気ある幕開けとは裏腹に、国道158号がぴったり並走するこの地域では「自動車」の普及と反比例して客足が遠のいた。車の存在が「ライバル」となった。
 そんな歴史を持つこの駅も、住民からの愛情は昔も今も変わらない。駅裏には住民が植えた11本の桜並木。冬場に積もるホームの雪も住民がせっせと取り除く。2月には駅裏の広場で左義長祭りも行われる。
 「国道を走る車の音より、列車の警笛が聞きたい」。そんな住民の声に応えるかのごとく、今日も列車は「ガタンゴトン」としっかり車輪を転がせて、福井と大野を結んでいる。

2008年10月8日(水曜日)

 (11) 越前薬師 福井市薬師町

 
「田吾作」 美化に一役
 
 美山駅を過ぎた列車は、次第に狭い谷間へと向かう。羽生川と国道158号、そして越美北線が並行して走る幅は、狭いところで30―40メートル。この辺り一帯は「物干しざおが架かるような所」と言われるほど山々が迫っている。そこに越前薬師駅は、ひっそりたたずむ。

越前薬師駅周辺

山と山の間を縫うように走る越美北線。越前薬師駅周辺では美化活動が始まっている

 駅のある薬師町には上、下薬師の集落があり、明治初期までは、それぞれ絵戸、百戸という地名だった。駅前の集落は下薬師で、15戸と世帯は少ないが、美山地区が生んだ“エンターテイナー”が住んでいる。県内外のイベントに引っ張りだこの名物おじさん、「百戸田吾作」=本名・前田正治(56)=さんだ。
 こっけいな踊りなどで人気者の田吾作さんは、体調を崩し昨年2月に手術。退院後、体調も回復し、豪雨により止まっていた越美北線の再開に合わせるかのように、役者活動も再出発した。

越前薬師駅周辺の地図

 駅や車内で“田吾作ダンス”を披露するなど、越美北線の利用促進に一役買っている。体重は88キロから66キロへと激減し、トレードマークだったふくよかなおなかは引っ込んだが、磨きがかかった軽快さで笑いを誘っている。
 現在、力を入れているのが地元、越前薬師駅周辺の整備。「注目してくれる駅にならんかなあ」と思い立ち、駅前の農地に水を張りスイレンを、歩道にはアーモンドの木を植えた。まだ始まったばかりだが、近所の人も草取りなどに積極的に協力し、美化活動がスタートしている。

田吾作さん

全線再開1周年に合わせ、車内で存続を訴える田吾作さん

 1960年の開通時から同駅を利用し、学生時代は通学の足として欠かせなかった越美北線。豪雪の時は、地元住民総出で線路の除雪に繰り出すなど、思い入れは大きい。
 県内外から招かれイベントを盛り上げている田吾作さんは「時間はかかるだろうけど、人が見に来るようになるまでにしたい―」と話す。次は、花々に囲まれた地元の駅で、愉快な田吾作ダンスを披露することを夢見ている。

2008年10月3日(金曜日)

 (10) 美山
      福井市境寺町

 
地区の顔 コンビニも

地図

 美山駅は越美北線20の無人駅の中で最も充実している。大手コンビニのローソンと美山観光ターミナルが併設。24時間営業のコンビニは地区唯一で、地元産杉を利用したターミナルの待合室はぬくもりを感じさせる。旧美山町の名前を冠した地区の”顔”として今や、地区民自慢の駅だ。
 美山駅が今のように大きく生まれ変わったのは2003年12月。JR西日本金沢支社は1960(昭和35)年開業以来の築43年の駅舎を撤去し、跡地へのローソン誘致を決定した。JR敷地にコンビニを誘致するのは異例のことだった。
 改築前の美山駅は1日の平均乗車人数が100人前後まで減少した1992年に無人化。その後も50―70人台で推移。町の”顔”に陰りが見えていた。
 そこに町民が待ちこがれていた初めてのコンビニ。町は「地域活性化につながる」と、JRのコンビニ誘致に合わせて駅周辺整備を実施した。駅周辺の町有地に地元の世界的洋画家の豊田三郎画伯や河内赤かぶら、おろしそば、地元の温泉など美山を紹介する観光ターミナルと駐車場を設けた。
 にもかかわらず、04年の福井豪雨で美山−一乗谷駅間が不通になる不幸に見舞われ、利用者は減少。07年度には全線復旧したものの1日35人にまで落ち込んだ。

美山駅

コンビニと観光ターミナルがある美山駅前で開かれたコンサート=8月24日夕

 今年8月24日。美山駅前コンサートが開かれた。企画の中心となったのは若くしてローソンを経営している竹山丈介さん(30)=蔵作町。地元高校生らが初々しいバンド演奏を披露。周囲ではまちづくりの仲間たちが、縁日のようなゲームコーナーを運営してコンサートを盛り上げた。
 「美山駅は美山の中心。地区が栄えるには、まちの真ん中に人が集まらないと」と竹山さん。将来は毎月のように駅前イベントを開くのが目標だという。生まれ変わった駅を使った地域活性化が動き出した。

2008年10月2日(木曜日)

 (9) 小和清水
      福井市小和清水町

 
住民の心、ホームに華
 
 市波駅を出た列車は、足羽川を縫うようにしてさらに東へ。左手に迫った山並みが再び遠ざかると、小和清水駅が見えてくる。沿線では福井豪雨の影響を最も受けた地域の一つ。駅の上り側と下り側の両方で鉄橋が流失した。

小和清水駅

全線復旧に合わせてホームの片隅にプランターが飾られた=福井市小和清水町

 「目の前で川の水位がどんどん上がっていくのが恐ろしかった」と振り返るのは村田春美さん(49)。四年前の豪雨で、自宅のすぐ近くにあった駅東側の第7足羽橋りょうが姿を消した。
 「農作業の人たちの時計代わり」にもなっている越美北線。田畑に出ると、列車通過を合図に昼食へ帰り、休憩を挟むお年寄りも多い。村田さんの母優美子さん(78)も、そうした一人。鉄橋がかけ替えられ、3年ぶりに走った列車を眺めたときは、思わず手を合わせて復旧を感謝した。

かつては「桜の駅」とも

かつて「桜の駅」として知られた小和清水駅付近=1996年4月撮影

 かつて線路脇の春を彩っていた桜は、2003年のふれあい会館建設に合わせ、惜しまれながら撤去された。現在、ホームを飾るのは、プランターに咲くマリーゴールド。昨年6月の全線開通に合わせ、「復活の感動を忘れないように」と村田さんが置き始めた。

小和清水駅の地図

 水やりの世話を今夏から引き継いだのは、近くに住む井上ひとみさん(57)。「恥ずかしいのでなるべく人目につかないように」と毎日早朝と夜にホームへ足を運ぶ。乗客数は1日平均10人足らずだが、「花があると来た人も心が和むでしょう」と手間をいとわない。
 小さな待合室があるだけの簡素なホームで、存在感を示す赤やオレンジの花々。未曾有の災害を乗り越えて戻ってきてくれた越美北線に寄せる住民の感謝と愛情を象徴しているようだ。

2008年10月1日(水曜日)

 (8) 市 波 福井市市波町

 
半世紀見守る桜並木
 
 水田と山並みを臨む小さなホームは、越美北線の無人駅ではおなじみのスタイル。ただ「春の市波駅は、遠くの車内からでもパッと明るく見える」。JRのベテラン職員がそう語る理由は、駅南側の小さな広場に立ち並ぶ桜並木にある。毎年春になると、駅に向かって枝を伸ばす桜17本が一斉に薄ピンクに染まる。わずかな停車時間、列車の客席は花見の“特等席”に早変わりする。

市波駅

春には満開の桜並木がホームを彩る市波駅=福井市市波町

 桜が植えられた時期や経緯に関する記録は、JRにも残っていない。美山町史によると、越美北線の開業は1960年だが、工事着工は35年にまでさかのぼる。39年に南福井―越前大野間に軌道の土台となる路盤が完成したが、次第に戦時体制が強化されて資材不足などで工事は中断。戦後の56年になって、地元の要望でようやく工事が再開された。
 開業直前の59年ごろ、線路敷設の現場で働いていたという駅近くに住む男性(82)は「開業したとき、桜はすでにあったように思う。開業を記念して地域で植えたのでは…」と記憶をたどる。
 植樹の正確な年代は分からないが、開業を機に福井市内の工作機械メーカーに就職した男性が、列車で毎日通勤する姿を桜が見守ってきたことは事実。「列車が通るまで、福井市内に行くには自転車を使っていた。福井に向かう当時の列車は市波駅ですでにいっぱい。終点までずっと立ちっぱなしだったが、それでも開業はありがたかった」

市波駅の地図

 半世紀近くの間、沿線住民の生活を支えてきた越美北線の歩みとともに、市波駅の桜並木も成長してきた。毎年、春が何より楽しみという男性は、満開の桜を眺めると「昔からのことをなんもかんも思い出す」という。
 越美北線沿線でただ一つ、春は桜に包まれる市波駅。17本の木々は来年の春も乗客や地域住民を喜ばせるため、今は武骨な姿でじっと力を蓄えている。

2008年9月30日(火曜日)

 (7) 越前高田 福井市高田町

 
名木タラヨウ 出迎え
旧美山入り口に彩り
 
 一乗谷駅を出発すると、車窓からの景色は、ぐんと緑が濃くなり、水面のきらめきも美しい。足羽川には、長い友釣り用のさおを流れにまかせ、アユを狙う太公望たち。ここから、美しい杉林に包まれた山紫水明の地、旧美山町に入る。

3つ目の鉄橋

美しい景色の中を行く越美北線。3つ目の鉄橋を越えると間もなく越前高田駅

 一乗谷駅から美山駅までは、蛇行する足羽川に時に寄り添い、時にまたぐように鉄路が走る。一乗谷駅から3つの鉄橋を越えると、ようやく越前高田駅に到着。この駅は、越美北線の開業から遅れること3年半の1964(昭和39)年5月、一乗谷―市波間の住民の要望が実り、新たに開業した。
 駅のすぐ近くには、県指定天然記念物「真杉家のタラヨウ」。樹齢は1000年以上、樹高25メートルは全国一、幹周り2.7メートルは埼玉県慈光寺にあるものに次いで2番目という名木。威風堂々とした姿で出迎えてくれる。

タラヨウの木

越前高田駅近くに堂々と立つ県指定天然記念物の「タラヨウの木」=福井市高田町

 少し歩くと、福井藩士の井上翼章が文化12(1815)年に名所、旧跡、産物などをまとめた「越前国名蹟考」に名を残す「鳴滝」。傍らには延宝5(1677)年に建立された「鳴滝不動」があることからも、古くから親しまれていたことがうかがえる。

越前高田駅の地図

 今年、近くの山岡美智子さん(68)は駅向かいの畑に、オレンジ色したヒマワリの仲間、チトニアの花を20株に増やした。昨年は5株だけだったが、復旧間もない越美北線の乗客が駅のホームに降り立った瞬間、「きれいな色。目が覚めるね」と話しているのを聞いたからだという。「越美北線の窓からでも『きれいな花が咲いてるなー』って思ってもらえるとうれしい。一人でも多くの人に乗ってほしいから」。こうした気配りの景色も、まちづくりの盛んな美山の入り口らしい。

2008年9月29日(月曜日)

 (6) 一乗谷 福井市安波賀中島町

 
歴史の旅誘う玄関口
 
 市街地、田園地帯を走り抜けてきた越美北線。車窓を通し、遠方に見えていた東の山々がぐっと近づいてくると、間もなく一乗谷駅だ。

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡をかすめて走る越美北線の車両

 一乗谷朝倉氏遺跡の入り口に当たる。本県が全国に誇る名所の最寄り駅にしては簡素な駅舎。駅に降りて見渡す限りでは、足羽川へせり出す山々が印象に残る程度だが、山間に足を踏み入れると国内有数の中世都市の「跡」が広がる。
 戦国大名、朝倉の時代は、越前が歴史上最も注目を集めた時代の一つに上げられる。孝景から義景まで5代およそ100年。朝倉氏はここ一乗谷に拠点を構え、越前を支配した。軍事、政治はもとより、戦国時代にあって、数々の庭園を築いたり京から公家を招くなど独自の文化も華やいだ。
 現在、エリア一帯には遊歩道や山道が整備され、戦国の世を身近に確認しながらのぜいたくな散策が楽しめる。

一乗谷駅地図

 駅近くの西山光照寺跡の石仏群、朝倉一族が戦勝祈願したとされる春日神社を経て、都市の城門「下城戸」へ。ここから谷沿いに約2キロ、朝倉一族の栄華をしのばせる中世都市が続く。寺院跡や武家屋敷跡をたどり、遺跡を象徴する「唐門」までところどころ解説板を確認しながら半日の小旅行。戦国都市のたたずまいや武将、町人らの暮らしを肌で感じるには、車よりも列車で訪れ歩く方が楽しい。駅は歴史の旅の「プラットホーム」でもある。
 「武将が生きていた時代に思いをはせながら散策するのは気分がよかった。武家屋敷はすごいね」。夫婦で歴史的名所を旅しているという東京の男性(60)は散策を堪能できた様子で笑顔を見せた。駅のホームで列車を待っている間、駅周辺の山々を見回し「何にもない所だけど、それがまたいいのかもしれないな」と満足そうだった。

2008年9月26日(金曜日)

 (5) 越前東郷
        福井市東郷二ケ町

 

夏の駅前 祭り舞台に
 
 小さいながらも平屋建ての駅舎が存在感を示している。戦国大名朝倉氏の城下町として栄えた東郷地区。足羽町が福井市に合併した1971年まで、町役場があったまちでもある。90年まで駅員が常駐。上下線のすれ違いが行われていたホームはほかの無人駅より一回り大きく、かつて一自治体の中心地だった歴史をうかがわせる。

越前東郷駅

越前東郷駅の駅舎。1日の利用者平均75人(昨年度)は福井駅を除く沿線各駅で3番目=福井市東郷二ケ町

 運行本数が減った現在、ホーム南側の線路は本線から切り離されている。切符売り場の窓口がベニヤ板で封じられた風景も日常になった。
 年に1回、静かになった駅前が人波であふれる日が来る。今年13回目を迎えた8月の「東郷街道おつくね祭り」。各自治会が手作りみこしを披露し、方言でおにぎりを意味する「おつくね」を配布して米どころ東郷をアピールする。
 近年の祭りを積極的に盛り上げているのは、30歳前後のいわゆる団塊ジュニア世代。毎年20人前後の若者がスタッフとなり、催しや出店を切り盛りしている。3年連続実行委員の高嶋宏和さん(32)=上毘沙門町=は「めんどくさいと思いながらも参加する若い世代を、いつの間にか一つにしてしまう土台が東郷にはある」と話す。

越前東郷駅の地図

 高嶋さんが生まれた70年代。合併直後の東郷地区には「市のベッドタウンとして埋没してしまうのでは」という危機感があった。そこから団塊の世代を柱にふるさとおこしの活動が熱を帯び、やがて”東郷の誇り”はおつくね祭りという形になった。親世代の奮闘を見てきた子どもたちに熱は着実に伝わっているようだ。
 かつて祭りの実行委員長を務めた高嶋さんの父了一さん(60)は「まだまだ若いもんの参加が足りない」と、さらに先を見据える。駅のホームに降り立つと、目に飛び込んでくる「ようこそおつくねのまちへ」の大看板。魅力ある「おつくねのまち」を目指す挑戦は現在進行形だ。

2008年9月20日(土曜日)

 (4) 足羽 福井市稲津町

 
絵になる田園シーン
 
 春は一面の緑、秋は一面の黄金色が一帯を覆う福井市東部の穀倉地帯。四季折々に表情を変える田園に「足羽駅」はぽっかり浮かぶ。
 駅を中心に田園が広がり、さらに集落、山の遠景へと続く。福井の田舎らしさとうまく一体化した駅の風景は、ドラマのワンシーンに使われたり、乗る運動のポスターに描かれたりと、心に残る駅でもある。

足羽駅の風景

田園にたたずむ足羽駅

 「開業したばかりのときは、大勢が乗ったけどな」と駅横のほ場で稲刈りに精を出していた近くの橋本達成さん(67)。1964年に開業。四方の集落から駅までは距離があるが、地域の人たちは自転車などで駅に来て、福井市の中心部へと向かった。現在注目のサイクル&ライドは当たり前だった。

足羽駅の地図

 利用者は減少を続け、同駅の1日平均乗客数は近年、お年寄りを中心に10―20人にとどまるが、同駅には特別な使命がある。目と鼻の先の足羽一中に生徒を安全に運ぶ仕事だ。
 冬になり雪で自転車が使えなくなった生徒は通勤手段を鉄路に変える。一乗谷駅や越前東郷駅から約30人が利用。朝の車両内は生徒のおしゃべりで少しばかりにぎやかになる。「車窓から見える山の風景が好き」「車掌さんの独特の声がいい」。伊与美里さん(15)らは電車に揺られる冬の通学を気に入っている。
 校舎の横をスピードを落としながら車両が通過する光景は生徒にとって日常の一部。部活動の遠征などでもよく利用する。同校にとって駅は今でも「とても身近な存在」(小島敏弘教頭)だ。
 「足羽」という旧町名を冠した駅は、地域の中心にあって今も必要とされ続けている。

2008年9月17日(水曜日)

 (3) 六 条 福井市天王町

 
“花園” 乗降客出迎え
 
 越前花堂駅を出発した列車は、市街地を東に抜けていく。ここからが、のどかな農山村を走る越美北線の本格的なスタート。間もなく、田畑と集落に囲まれた六条駅が見えてきた。

六条駅の地図

 ホームに立って、まず目に入るのは、黄色い小さな花が並ぶ花壇。約80メートルのホームの後ろに、ぴったりと平行しながら、キク科のメランポジュームが無数に咲き誇っている。
 植栽したのは近くに住む堀内良雄さん(70)。昨年、天王町の自治会長を務めた時、「地元の環境を整備しよう」と考えたのがきっかけで、毎朝毎晩、草取りや水やりに精を出した。
 今では、高さ60―70センチほどの株が、約1000株になり、「ここまで増えるとは」と本人も驚くほど。5月から11月ごろまで咲き続けるメランポジュームは、駅の顔になっている。

六条駅

約80メートルのホームに沿って花々が咲き誇り、乗客を出迎える六条駅

 妻の信子さん(64)も協力し、駅入り口付近にある約12平方メートルの花壇も整備。アサガオやガザニア、月見草など「一年中楽しめる花壇」の管理を続けている。
 こんな“花園”に囲まれた駅だが、利用者は決して多くはない。過去10年以上、1日の平均乗客数は一けたにとどまっている。同駅から約1キロ北側には県立図書館や福井市美術館、県産業会館などがあるが、最寄り駅として利用する人はほとんどない。
 越前大野駅の北野進一駅長は「同駅からの二次アクセスが充実していないため、乗客が少ない。利用者を増やすには、コミュニティーバスなどの整備を市などに働き掛けていく必要がある」と話している。

2008年9月12日(金曜日)

 (2)越前花堂 
      福井市花堂東1丁目

 
奥越へ向かう起点駅
跨線橋渡り北陸線接続
 
 福井駅を出発した列車は北陸本線のレール上を進み、貨物専用の南福井駅を通過、越美北線の「起点」に近づいていく。越前花堂駅を前にレールの分岐を左に折れれば、頭上に張られていた架線は消え、すっきりと空が広がる。ここからは電車は入れない。ディーゼル車両の世界が始まる。

越美北線全体図

 分岐から約100メートル、車窓の右手の信号機を過ぎれば、越美北線。さらに約20メートル、ゆっくりと越前花堂駅に滑り込む。
 乗客数は、福井駅を除く越美北線22駅の中で最多。1日約300人が利用する。「近くにショッピングセンターができたりして、活気が出たのでは」(JR社員)と話すように、ベルへの最寄り駅としても利用される。

越前花堂

北陸本線(右端)を左にそれ越美北線の起点「越前花堂駅」(左奥)に滑り込む。

 「福井駅から越美北線は2時間に1本。30分に1本ある北陸本線でここまで来て、ベルで買い物を楽しんで時間をつぶすとちょうど良いしね」と話すのは、パートの仕事を終えて午後2時55分の列車で大野方面に帰る女性客。隣接する北陸本線の越前花堂駅を活用し「接続駅」として使うケースも多いよう。そのほか羽水高などの生徒も頻繁に行き交う。

越前花堂駅

 北陸本線の越前花堂駅から越美北線のホームに立つには、跨(こ)線橋を渡り、さらに草むらの中の小道を東へ進むこと約20メートル、単線レールが目の前に現れる。こぢんまりとはしているが、駅の歴史ではこちらのほうが”先輩”だ。1960年の越美北線誕生とともに生まれ、1968年の福井国体に合わせて開業した北陸本線の同駅より10年ほど歴史が古い。
 越前大野駅の駅長を務める北野進一さん(48)は「この駅を過ぎると車窓からの眺めも牧歌的になり味が出る。ゆっくりと楽しんで」。いよいよローカル線の旅が始まる。

2008年9月11日(木曜日)

 (1) 福 井 福井市中央1丁目

 
切欠ホームから出発
全乗客の9割利用
 

福井駅のホーム

 「九頭竜線(越美北線の愛称)のりば この先100メートル」。福井駅の階段にある案内に従って北陸本線下り線ホームの先端に向かうと、突堤のように突き出た2番ホームがある。県内に唯一残る非電化路線、越美北線に乗って九頭竜湖駅まで55.1キロの道のりはここから始まる。
 午前7時43分。越美北線で唯一、3両編成の便が福井駅に到着した。サラリーマンや高校生が続々と降り立ち、足早に改札へ向かう。2番ホームが最も活気づく時間だ。
 昨年度の越美北線の1日平均乗客数は880人。そのうち約9割が通勤、通学などで福井駅を利用している。ほとんどが1両編成だが、通勤、通学の時間帯は2、3両編成の列車も走る。3両編成300人乗りとなる通勤時間帯の乗車率は約80%。昨年6月、福井豪雨による不通から3年ぶりの全線再開を果たし、生活路線としての役割を取り戻した。

切欠ホーム

幅半分の「切欠ホーム」となっている越美北線専用の2番ホーム=JR福井駅

 専用の2番ホームは、北陸本線下りホームの南端89メートル分を“間借り”した形でつくられている。ホーム幅9メートルのうち半分が切り取られたような形状で、その部分に線路が引き込まれている。
 旧駅舎から受け継がれる「切欠(きりかき)ホーム」と呼ばれる構造で、敦賀駅から関西へ向かう新快速線や金沢駅の七尾線など終点となる駅で多く用いられている。限られた敷地面積を有効活用する工夫の1つとされる。
 幅が狭いため、ベンチは1、3番ホームの端に12人掛け2つを設置。夕刻は帰宅する高校生らが腰掛け、列車が到着すると一斉に2番ホームへ移動する。車内は出発前からすでに満員状態になる。

ポイント切り替え

出発した列車はポイント切り替えを経て進行方向左の上り線へ

 出発した列車はすぐに本線上り線へ移る。信号を確認しながら連続してポイント切り替え部を通過。車体を大きく振りながら、進行方向左の上り線路へと一気に入っていく。発着の線路となる切欠ホーム特有の列車の動きだ。
 昨年の全線再開後は通勤、通学の利用者に加え、行楽地へ向かうハイキング姿の高齢者も目立つようになってきた。改札から最も遠くに位置するホームまで、誘導の看板や張り紙をこまめに表示。辻昭夫駅長は「ホームをひっそりと置いておくつもりはない。大勢の人に利用してもらいたい」と願いを込める。
 
 ×  ×  ×
  
 福井市から大野市の旧和泉村まで、足羽川と九頭竜川を縫うように岐阜県境に向かって走るJR越美北線。04年の福井豪雨で橋が流失し、一部不通となり途中代行バスで運行されたが、昨年完全復旧した。今回の「駅巡りシリーズ」は九頭竜湖駅まで、よみがえった全線をたどる。

2008年8月3日(日曜日)

 番外編 まちの“顔”時代彩る

 

大名町交差点
大名町交差点

大名町交差点
(上)は芝生の緑地があったころの大名町交差点。交通量の増加で1967(昭和42)年ごろ、取り払われた=1951(昭和26)年ごろ(福井市立郷土歴史博物館所蔵)、(下)は現在の大名町交差点。ひげ線から北進し市役所前へ向かう電車

 路面電車はまちの顔であり、かけがえのない“住人”だ。移りゆく時代の中で、福武線は確かに福井を彩ってきた。未来へと引き継ぐため、「県内鉄路駅巡り」の初回シリーズ「残そう福武線」の番外編として、福井市内の過去と現在の線路のある風景を紹介する。

電車通り
電車通り

電車通り
(上)は自転車が我が物顔で走る福井駅前電車通り=1947(昭和22)年ごろ(ふくい私鉄サポートネットワーク 岡本英志代表所蔵)、(下)は現在の駅前電車通り。単線になり、車と歩行者に注意しながら電車がゆっくり通る

幸橋
幸橋

幸橋
(上)は線路の上を人力車や荷車が行き交う幸橋。当時は福井新橋と呼ばれていた=1933(昭和8)年10月24日撮影(吉川侃利さん所蔵)、(下)は新しい幸橋。中央をゆったりと通る

2008年8月2日(土曜日)

 (24) “嶺北縦断”で便利に

 
えち鉄との相互乗り入れ構想
待ち時間少なく
 
 福井市中心部から南へ延びる福井鉄道福武線と北へ延びるえちぜん鉄道三国芦原線。嶺北地方を縦断するこの2線を路面電車部分を経由して相互に乗り入れる計画が進行している。
 田原町駅の福武線とえちぜん鉄道三国芦原線の線路は隣り合っている。ここで接続すれば両線による“嶺北縦断鉄道”ができあがる。

田原町駅

福井鉄道福武線とえちぜん鉄道三国芦原線が隣り合う田原町駅。両線の相互乗り入れで利便性向上が期待される

 JR福井駅前からフェニックス・プラザのある田原町まで約1.2キロ。歩くには遠く、タクシーを使うには近い。「『待たずに』『安く』乗れる路面電車ならば、有効な交通手段となりうる」。福井市交通政策室は、相互乗り入れによる高頻度運行のメリットを上げる。
 時間的に見ても田原町駅を起点に、三国芦原線はJR福井駅東口まで4駅8分、福武線はJR福井駅西口まで3つの停車場があり、最短のダイヤで6分。坂井市方面から乗り入れでわずかに早く着く計算だ。
 市の「都市交通戦略」策定の会合で、朝夕のピーク時以外の相互乗り入れ区間について、北は三国芦原線の「新田塚」か「八ツ島」、南は「ベル前」か「江端」までとすることで両事業者が合意した。三国港発江端行き、武生新発新田塚行きという運行が実現するかもしれない。
 両線が重複する区間は、現在の福武線単独の1時間2―3本から両線合わせ6本に増加。「10分に1本」となる。待ち時間は数分。「いつでも乗れる路面電車」に近づく。

乗り入れイメージ

 福井大、高校、フェニックス・プラザ、市役所、県庁、商工会議所…。沿線には多くの県民が利用する施設が張り付く。「将来的にはバスや鉄道を総合したまちなかゾーンの統一料金設定も考えられる」。市交通政策室は相互乗り入れをてこにした公共交通の可能性の広がりを描く。
 ただ、相互乗り入れには「ヒゲ線」をどうするかという難題がある。沿線の福井駅前商店街は交通上の安全性や路面イベント開催の観点からヒゲ線を残すことに難色を示す。一方、三国芦原線の沿線自治体はJR駅との接続を前提に乗り入れを認めた経緯がある。
 市都市交通戦略協議会は、ヒゲ線をそのまま延伸するか、中央大通りに移設していくのか、9月下旬をめどに結論を出していく方針だ。
 日本海側の都市で路面電車が走るのは福井市、富山市、高岡市のみ。「都市発展の歴史の中で、路面電車は人とともに歩んできた。まちの個性としても大事にしていきたいと思うんです」。ふくい路面電車とまちづくりの会の内田桂嗣会長は、まちなかを走る路面電車の意義をこう訴えている。  (おわり)

2008年8月1日(金曜日)

 (23) 田原町 田原1丁目

 
終電、始発まで“休息”
 
 福井市のフェニックス通りを北上し、時速10キロに減速しながら左に90度カーブすると田原町駅が見えてくる。武生新から数えて22駅目(停留所を含む)、福武線の最終駅だ。
 駅舎は、1950(昭和25)年の開業とともに建てられた風情ある木造のたたずまい。えちぜん鉄道との乗換駅でもあり、同じ駅舎を共有するのは珍しい。福鉄によると、駅舎は福鉄の所有となっている。

田原町駅

午後10時40分、田原町駅に到着した最終電車。駅で一夜を過ごし翌日の始発に備える

 昭和30―40年代には、駅南側(現在のフェニックス・プラザ)に同市中央卸売市場があり、卸売人らで活気にあふれていたという。
 現在は、フェニックス・プラザや県立美術館、市立図書館などの文化施設が点在。また、藤島高、北陸高、啓新高、福井商高などの学校が多いため朝夕は学生でにぎわう。昨年の1日の乗客数は、平均約1500人で、軌道線の駅(停留所)では一番多い。
 無人駅だが、朝のラッシュ時の午前7時半から1時間、臨時駅員が登場する。地元、田原1丁目のお年寄り夫婦が一役買っている。電車が到着するたびに、ホームに立って集札する。約10年間、日曜日以外は毎日いる。「1日のスケジュールの一つ。家にいるより、生活にはりが出ていい」。夫婦の充実した朝の時間だという。
 駅舎には、最終電車とその前の電車で同駅に到着した運転士2人が毎日寝泊まりする宿直室がある。「田原町グランドホテル」。三上智之さん(22)ら一部の運転士の間でそう呼ばれている。「寝心地は最高」と和室に敷かれた布団の感触もいいようだ。ちなみに武生新駅にある、もう一つの宿舎は「プリンスホテル」というらしい。

田原町駅の地図

 宿舎では、その日の出来事を話し合ったり、反省会などが開かれる。その後、睡眠をとり翌朝5時半に起床。ブレーキの利きやドアの開閉、無線の感度などのチェックを済ませ、午前6時12分の始発に備える。
 三上さんは、今年7月に入って独り立ちしたばかりの、ほやほやの運転士。「事故なく安全にお客さんを運ぶ運転士になりたい」と力強い。「学生やお年寄りのためにも電車は必要だ」と実感している。
 三上さんの同期の運転士、佐野弘享さん(21)も「今は大変な状態だけど、会社のために貢献したい」と強い使命感を持つ。
 午後10時40分前、ホームに最終電車が到着した。午後9時50分に武生新駅を出発し約21キロ、50分の仕事を終えた。きょうも多くの人を安全に運んだ充実感を胸に、始発までの6時間、つかの間の休息に入った。

2008年7月31日(木曜日)

 (22) 裁判所前 宝永4丁目

 
統合経て“女子高前”
 
 市役所前から、田原町駅に向かう電車はフェニックス通りをさらに北進。左手には繁華街・片町、右手にビルやホテルが並ぶ。左手に見える茶色い外観の福井地裁を過ぎると「裁判所前」に到着する。裁判所“前”ではないのに、これは一体なぜ?

裁判所前の停留所

福井地裁(右)の前を通り過ぎて、「裁判所前」に到着する電車

 市役所前―田原町間は1950(昭和25)年に開業した。当時はさくら通りに面している裁判所の前に文字通り「裁判所前」、その先の松本通りの辺りに「松本通り」と2停留所があった。ところが64(昭和39)年に「裁判所前」と「松本通り」を統合し、「松本通り」を「裁判所前」に改名する形で新しい停留所が誕生。このときに両停留所の間をとって現在地になったという。
 福武線のほかの路面停留所は、上りと下りホームが交差点をまたいで斜めに配置されているが「裁判所前」だけが向かい合っている。

裁判所前の地図

 ダイヤ通りに電車が到着しないことも少なくない。フェニックス通りとさくら通りの裁判所前交差点、同じく松本通りの東下交差点の間にあるだけに、軌道敷内に右折する乗用車が止まっていることもあるからだ。電車と右折乗用車との接触事故が相次いだ時期もあり、東下交差点では2004年、県警が右折と直進、左折車両、路面電車、歩行者を時間差で通行させる「右直分離方式」の信号を導入した。ダイヤの乱れは路面電車の宿命でもある。
 周辺には、裁判所のほか、春山合同庁舎もあり、弁護士事務所なども多い。何より真ん前には仁愛女子高がある。通勤通学時間帯には、スーツ姿の大人たちとともに、女子高生たちが幅75センチのホームにあふれる。まるで「女子高前」駅のように。

2008年7月30日(水曜日)

 (21) 福井駅前 中央1丁目

 
商店街にゆっくりと
歩行者安全へ細心
 
 市役所前停留所を出発した電車は大名町交差点内で大きなカーブを描いて駅前電車通りへ。両脇に商業ビルや百貨店を眺めながらゆっくりと進む。福武線唯一の支線である福井駅前線。ヒゲ線と呼ばれ、中心市街地の風景の象徴として市民に長く親しまれている。

福井駅前停留所

中心市街地の象徴として市民に親しまれているヒゲ線の福井駅前停留所

 福井駅前停留所は1933年、福井市(現福井新)駅から市街地方面へ延伸したのに伴い、本線の終着点として開業。50年の市役所前―田原町区間開業で、フェニックス通りからJR福井駅方面に伸びた約280メートルの区間が支線となった。
 戦後から60年代にかけ、にぎわいを極めた駅前商店街。週末になると電車に乗った家族連れがどっと押し寄せた。果物店店主の梅田敬男さん(48)は「昔は一張羅を着て電車で駅前に来るのがお決まりだった。降りてきた人たちで通りは埋め尽くされ、歩道には人の頭しか見えなかった」と盛況ぶりを振り返る。

大名町交差点をカーブしヒゲ線へ

大名町交差点をカーブしヒゲ線へ。運転士は歩行者の安全に細心の注意を払う

 現在、ヒゲ線は1日に48本が往復。車社会の発達で買い物目的の乗客は減ったものの、通勤・通学やお年寄りの足としてその役割を果たしている。ホテルの飲食サービス勤務の川口晴加さん(20)=同市下荒井町=は「職場のすぐ近くまで電車が通っていて便利」と話す。
 ヒゲ線は04年、市の「賑(にぎ)わいの道づくり事業」の一環で、電車通りの歩道拡幅と同時に単線化された。新レールには段差が少なく騒音を抑えられる静進軌道を導入。路面イベントの開催に向けて、ホームは上部の柵だけでなく土台ごと分解して撤去できる構造に変更し、商店街との共存を図っている。

福井駅前停留所の地図

 運行面でも商店街歩行者の快適性が配慮され、軌道線を時速40キロ台で走ってきた電車は、ヒゲ線に入ると時速20キロ台に減速。運転士の高野宏之さん(32)は「道路を横断する歩行者には細心の注意をしています」と街に優しい運転を心掛ける。
 福井鉄道とえちぜん鉄道の相互乗り入れ計画に絡み、ヒゲ線はJR福井駅への延伸が検討されている。福井駅前商店街が交通上の安全性などの観点から現状ルートのままの延伸に難色を示す中、市は中央大通りへの移設などの可能性を探り、年度内に方向性を決めることにしている。
 半世紀以上にわたり市民に愛され、街とともに歴史を刻んできたヒゲ線。「路面電車は駅前のなじみの風景」との乗客の後押しを受け、きょうも商店街を静かに往復している。

2008年7月29日(火曜日)

 (20) 市役所前
       福井市順化1丁目

ヒゲ線へスイッチバック
運転士、前から後ろへ
 
 幸橋を渡った電車は、フェニックス通りの真ん中を北進。目の前には福井市街地の風景が広がる。大名町交差点を通過すると間もなく「市役所前」に止まった。

市役所前駅の周辺

市役所前駅周辺の福武線。時間帯によっては3つの電車が行き交う珍しい光景も見られる=7日、福井市のフェニックス通り

 先頭にいた運転士が、客のいる車内を急いで後方へ向かう。一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに謎は解けた。後部の運転席に運転士が座った電車は反対方向に進み、上下線をつなぐ渡り線へと進入。さらに上り線の線路に入り、上りホームで停車した。この複雑な動きこそが、福武線の駅の中でもここでしかみられない珍しい「スイッチバック」だ。

 理由は1つ。同駅と福井駅前駅が本線とは別の「ヒゲ線」でつながっているから。本線を走る武生新駅発の下り電車で福井駅前「経由」もしくは「行き」の電車は、必ずスイッチバックしてヒゲ線に入る。市役所前が2つの線路の橋渡し役となっている。

 市役所前を出た上りは、そのまま武生新へ直進する電車と向かうものと、左折して駅前に入るのと2系統ある。どうやってポイントを切り替えるのか見ていると、

車内を移動する運転士

市役所前駅で停車する上り電車。福井駅前駅へ進行方向が変わるため、運転士が社内を移動する光景が見られる

市役所前駅の上りホームの地下道入り口の壁に「駅前」「武生」と書かれたボタンが目に入った。ホームに停車した電車が南進する際、運転士が電車から身を乗り出し、どちらかのボタンを押してポイントを切り替えている。

 福井駅前駅―田原町駅間を「シャトル便」と呼ばれる電車も走る。時間帯によって上下線とシャトル便計三本が集中。慣れない客はどの電車に乗ればよいかを迷わされる。取材中も3本が現れ、越前市に向かおうとしている老婦人が困り顔。通学で乗り慣れた男子高生が、

運転士

ボタンを押してポイントを切り替える運転士

そんな姿に「次の電車に乗ればいいよ」。ほほ笑ましい光景だった。

 上り電車内で発車待ちしていると、今度は市内の車いすの男性(60)とその妻(58)が。若い運転士は額に汗をかきながら乗車を手助け。足を患ってからなかなか外出できなかったという男性だが、「福鉄は運転士が親切やし、最近頻繁に駅前に出歩くようになった」と感謝しきりだった。

地図

 ヒゲ線と本線をつなぐ駅。駅前への買い物客や通勤、通学客など1日1000人余りが利用している。複雑に行き交う電車、さまざまな乗客。人と人の心をつないでいることを実感する停留所だ。

2008年7月26日(土曜日)

 (19) 公園口 毛矢1丁目

 
幅75センチ、緊張のホーム
 
 ホームの幅、わずか75センチ。木田四ツ辻を出発した電車はフェニックス通りを車と並走しゆっくりと北進する。500メートルほど走り足羽山公園のふもと、毛矢交差点の「公園口」で静かに扉を開ける。

公園口のホーム

幅75センチの公園口のホームは一人歩くのがやっと。すぐ脇を車と電車が行き交う

 ホームに降り立った瞬間、その狭さに驚かされる。人一人が歩くので精いっぱいの幅で、雨の日に傘を差そうものなら、はみ出してしまうほどだ。現在の鉄道軌道法は、幅150センチ以上のホームを設けるよう義務づけているが、1933(昭和8)年の開業時は今の幅でよかった。ホームの幅が古い停留所の歴史を物語っている。
 停留所周辺には現在、福井商工会議所ビルや江守商事、セーレン本社ビルなどが点在するが利用客はそれほどいない。公園口も一日の平均利用客数はたった35人。周辺では廃止された停留所が多いのも事実だ。木田四ツ辻―公園口間にあった「藤島神社口」は62(昭和37)年に廃止された。

公園口の地図

 公園口からさらに先の市役所前まで約700メートルの間にも「幸橋詰」「本町通り」「県庁入り口」の3停留所が存在したが、2002年の本町通りを最後に3つとも姿を消した。
 そんな中で残った公園口は、8月上旬の「福井フェニックスまつり」花火大会の当日(今年は4日)に、1年間で一番の活気を見せる。今年も足羽川河川敷に向かう見物客の明るい声が、ホームを飛び交うはずだ。
 福井鉄道に40年以上勤務するベテラン社員は「安全確保のために駅員をホームに配置します。今はやっぱり当日のにぎわいが楽しみですね」と話し、あと10日足らずで訪れる“旬”な一日を心待ちにしているようだ。

2008年7月25日(金曜日)

 (18) 木田四ツ辻 西木田2丁目

 
いざ軌道へ 車と共存
 
 福井新駅を出発した下り電車は時速40キロまで加速した後、ぐっと速度を落として左カーブに差しかかる。ゆっくりと響く「ガタン、ゴトン」のリズム。左の車窓に見える白いポールを通り過ぎると、鉄道区間が軌道区間に切り替わる。福武線が、いわゆる路面電車に変わる瞬間だ。

交差点と停留場(左)

県道の新木田交差点を走る福武線の電車。交差点と停留場(左)は目と鼻の先

 「県道の新木田交差点から路面電車になると思われているかもしれませんが、法律上の境界は百数十メートル手前です」。昭和40年代から約20年間、運転士を務めた福井鉄道職員の中村和明さん(63)は、境界を通過してから速度と反比例して高まっていく運転士の緊張を明かす。
 時速20キロを保ってカーブを抜けた電車は、鉄道用信号に従って新木田交差点で一時停止。信号に黄色の矢印が点灯すると、ゆっくりと交差点に進入していく。間もなく、交差点で停止していた乗用車も一斉にスタート。電車専用だった空間が乗用車や自転車、歩行者と共存する空間に一変する。中村さんは「福武線で運転士が最も気を張る場所です」と話す。

木田四ツ辻停留所の地図

 歩行者はもちろん、運転士は信号を無視して線路を横切ろうとする乗用車がいないか、交差点を過ぎてすぐの木田四ツ辻停留場まで細心の注意を払う。起動レバーと制動レバーを握りながら「警笛はいつでも鳴らせる体勢」。交差点のさまざまな状況を見落とさないようにと、ベテラン運転士でも座席から腰が浮くほど前のめりになるという。「新人のころは運転席の窓に張り付くようにレバーを握っていた」(中村さん)。
 運転士の緊張を知ってか知らずか、新木田交差点では電車に向けてカメラを構える鉄道ファンの姿がちらほら。鉄道と軌道の境界近くの交差点でカーブを描く姿は絶好の被写体だという。運転席の緊張感とシャッターチャンスを狙う緊張感。異なるドキドキが、車と電車が行き交う交差点ですれ違っている。

2008年7月24日(木曜日)

 (17) 福井新 みのり1丁目

 
修理の要所 整備車も
鉄道区間の“終点”
 
 花堂駅を出発した下り電車は、ほどなくJR北陸本線と並走し福井新駅に到着する。構内は4線と広く、急行も停車する主要駅の一つ。鉄道区間最後の駅だ。
 1925(大正14)年に「福井市」駅として開業、当時は終点だった。33年に福井駅前まで路面電車が延長され、「福井新」と改名した。

福井新駅

日中、上下線の電車が必ずすれ違う福井新駅

 駅舎には福鉄観光社福井営業所も入り、数人の職員が勤務。駅東側の社用地は月極のほか、一日駐車場として300円で貸し出している。
 午前9時から午後3時台の普通電車は、上り下りとも必ず同駅ですれ違う。4つの線路の中央にホームがあり、その両側2線が乗降用。残りの2線は待避線などに使われる。また、ホーム北側には約20メートルの古びた石畳が敷かれ、昭和中期まで走った路面専用電車のホームとして使われた名残が残っている。

福井新駅の地図

 同鉄道の修理の“要所”でもある。本線から東側に分岐した線路には、「マルチプルタイタンパー」(通称マルタイ)といわれる、レールのゆがみを補修する黄色い車両が控える。砕石を運搬、散布する黒い「ホッパ車」も。冬には、除雪車も待機するという。
 また、福鉄によると、72年ごろまで保線修理班の詰め所があり、数人の作業員が常駐。軌道線(路面電車)の補修などの業務を担っていた。

整備車

線路を修理するための車両が待機している

 昨年度の利用者は約11万6000人。8割以上が定期外で、切符を買い求める乗客が多い。駅員によると、日中は同駅から徒歩5分にある福井赤十字病院に通うお年寄りが多い。20年間、西鯖江駅から通っている85歳の男性は「運転免許を返上したので、病院へ行く手段は、この電車しかない」と話す。
 同駅を出発した下り電車は、鉄道区間に別れを告げ、軌道区間として福井市街地へ向かう。

2008年7月23日(水曜日)

 (16) 花 堂 花堂北1丁目

 
倉庫群、成長期の名残
福井向けて複線化
 
 色あせた倉庫の壁や年季の入った町工場のトタン屋根…。沿線の風景は花堂駅付近で高度成長期の面影を残す建物が増え、懐かしさと寂しさを感じさせる。
 線路はここから福井に向けて複線化するが、平日の夕方でも乗り降りはまばら。どこか寂しげなまちの風景にまぎれるようにブロック造りの灰色の「花堂駅」はある。

花堂駅

巨大な倉庫に囲まれるようにたたずむ花堂駅のホーム

 周囲には巨大な倉庫群。線路側の壁に閉じられたままのシャッターや扉がある。電車はホームの内側を通過するが、外側にも途切れたレールがある。シャッターと外側のレールは花堂駅に活気があったころの名残だ。
 外側のレールを延長した先はちょうど倉庫のシャッターの前。「昭和24年9月 花堂駅より側線110メートル敷設する」。福井倉庫(本社福井市南江守町)の社史に記されている。この隣の倉庫にも2つ扉が設けられている。

花堂駅の地図

 「横付けした列車から直接ベルトコンベヤーで次々と荷物を積み込んだもんです」。福井倉庫の天田政吉常務(61)は振り返る。
 福武線は貨物を運ぶ産業路線でもあった。1950年代から70年代にかけて越前市内でJRから乗り入れた貨物車の多くが花堂駅の倉庫群を目指した。「米やビール、繊維のよかった時代には原糸なんかも多かった」(天田常務)という。当時は近くの染料会社や石油タンクへも専用の引き込み線が敷設されていた。
 しかし、70年代も後半になると、モータリゼーションが発達、輸送の主役はトラックに取って代わった。引き込み線は77年に廃止され、貨物車の乗り入れも84年に終わりを告げた。同時に貨物の拠点としての花堂駅も影を潜めていった。

花堂駅近くの倉庫

線路に向けてシャッターが設置されている花堂駅近くの倉庫。貨物でにぎわったころの面影を残している

 貨物だけにとどまらなかった。車は家庭に普及し、並行するフェニックス通りには路線バスが通る。現在、年間乗客数はすべての駅の中で最低。ほぼイベントによる利用のハーモニーホール駅よりも少ない。
 福井新駅で駅員を務める木下文昭さん(64)は言う。「貨物利用はもちろん、大きな繊維工場の従業員さんも利用してもらっていて活気があったんですけどね」。かつて花堂駅は、福井の経済成長を支えたヒト、モノ両面で確かな存在感を示していた。

2008年7月19日(土曜日)

 (15) ベル前 福井市花堂南1

 
休日 買い物客で活気
 
 江端駅から北へ向かって一直線の線路をわずか1分。福武線のうち駅間最短時間でベル前駅に滑り込む。ショッピングセンター、ベルから東へ100メートル。その玄関口として親しまれ、買い物袋を手にした主婦らが出入りする。

ベル前駅

ベルの東約100メートルに位置するベル前駅

 1989年10月、ベル利用者のために江端駅と花堂駅の中間に「花堂南駅」として創設された。ハーモニーホール駅に次ぐ2番目の若さ。4年後、「より分かりやすい名前に」と名を変えた。
 駅が特に活気づくのは休日だ。ホームは買い物を楽しんだ親子や女子高生らでにぎわう。越前町から訪れた女子高生は「電車はショッピングセンターに来る唯一の交通手段」と、購入したばかりの洋服を手に話した。買い物帰りの若者や主婦からの評判は良い。

ベル前駅の地図

 ホームに立つと、線路の向こう側に、廃材の枕木で作られた手作りの花壇が目に飛び込む。マリゴールドなどが咲き並び、電車を明るく出迎えるこの花壇は、花堂南1丁目の老人会「花堂南日向会」が昨年、線路脇の草むらを幅80メートル刈って設置した。「駅は町の玄関口。利用者に気持ちよく使ってもらいたいからね」と同会長の西川征男さん(68)。住民自らが”駅作り”を楽しんでいる。
 5年ほど前まで、休日に駅員が行っていた切符販売も今は無く、現在は終日無人駅。郊外に大型ショッピングセンターが立ち、駅利用者は10年前の半分、年間約5万5000人に減ってしまった。しかし「この駅が町やベルを活気づけている」と住民が話すように、今でも買い物客の足としてしっかり頼られている。

2008年7月17日(木曜日)

 (14) 江 端 福井市江端町

 
田園地帯抜け市街へ
歴史伝える石垣 今も
 
 ハーモニーホール駅を過ぎると、それまでの田園風景が、両側に住宅や自動車整備工場などが並ぶ街の風景に変わる。江端駅は市街地への“境界線”だ。
 浅水のように、近くに高校もなければ、ベル前のようにショッピングセンターもない。県立音楽堂のような公共施設もない。それでも過去10年間は毎年約4万人が利用。特に市内で最も利用者数の変動が少ないのは、地域の足としての役割の大きさを物語る。無人駅化も1991(平成3)年と最も遅かった。

江端駅

地域の足としての色合いが濃い江端駅。通勤、通学客が大勢乗り込む

 学生や新米教師のころに利用したという酒井郷衛さん(78)=江端町=は、1945(昭和20)年前後は「そりゃあひどいもんやった」と混雑ぶりを振り返る。東は下莇生田町、西は南江守町など広範囲の人が利用。通勤・通学時間帯は、電車の側面のステップや、連結器のでっぱりに足を乗せてまで乗る“超満員”だった。
 江端駅の利用客のピークは清明地区の団地造成で人口が爆発的に増えた80年。29万7000人が利用した。
  ■  □  ■
 開業は1925(大正14)年と市内“最古参”駅の一つ。かつてあった木造の駅舎や駅長家族が住む建物の面影はなく、雨ざらしのホームや、砂利の駐車場になっている。

今も残る石垣

上りホームにだけある石垣。開業時の面影を残している

 だが、“生き証人”が今も残っている。上りホーム下の石垣がそれだ。
 材料の石は「九頭竜川、日野川を通って、江端川の船着き場で降ろしたんやと」。近くの居村信夫さん(74)は20年ほど前に、地区の古老から聞いた話を教えてくれた。今や鉄道からトラックに代わってしまった輸送手段が鉄道以前、水運だったことを静かに伝えている。2年前に低床車両導入に伴い、ホーム高が3分の1に切り下げられた際にも石垣は残った。
 後でつくられた下りホームには石垣はない。居村さんは「歴史の産物。絶対に残したい」。これもまた残そう福武線への思いだ。

2008年7月16日(水曜日)

 (13) ハーモニーホール
         福井市今市町

斬新ホーム 音楽の彩り
 
 ホームに降り立つと、ピアノ形の駅名看板が出迎えてくれる。音符のフラットをモチーフにした待合室の屋根が滑らかな曲線を描く。県立音楽堂の玄関口、ハーモニーホール駅ならではのデザインだ。
 県立音楽堂の100メートル余り西に位置する福武線で最も新しい駅。福井市郊外に立つ同施設の利用促進を狙い、開館に合わせて県が建設した。1997年9月の開館時には、当時の知事、市長らが下車し運用開始を祝った。

ハーモニーホール駅

ピアノ形の看板、音符のフラットを模した屋根が設置されたハーモニーホール駅

 ホームは音楽堂側に一本あるだけ。上りと下りの乗降位置をホームの両端に分け、それぞれ待合室を設けてある。水田への農業用水路が確保されるようにと、ホームの地下をトンネル状にする「桟橋形式」で建設されたのも特徴の一つだ。
 シンプルな無人駅ながら、屋根や看板の斬新な外観は全国的にも注目を集めた。98年、日本デザイン協会のSDA賞パブリック部門サインデザイン奨励賞を受賞。2000年には「中部の駅百選」の認定を受けている。

ハーモニーホール駅の地図

 「すてきなデザインがわたしのお気に入り」と太鼓判を押すのは、音楽堂の清掃業務で4年前から駅を利用している福井市内の女性(56)。「毎朝の通勤が楽しい気分になる」と話す。
 昨年度の利用者数は1万2844人で、福武線全体のわずか0・8%。乗降客が一人もいない便も多いが、大きな音楽会が開かれたときはにぎわう。駐車場の混雑を嫌って、電車でゆっくりコンサートの余韻を味わうという人もいる。
 音楽堂で年間20回開かれている「ちびっこコンサート」では、市内外の幼保育園や小学校が来場に福武線を利用。7月の開催日には約200人の園児、児童が降り立ち、歓声を響かせた。
 市民が幅広く音楽に親しむために設けられた同駅。音楽に彩られたホームが、次のにぎわいを待つ。

2008年7月12日(土曜日)

 (12) 浅 水 福井市浅水町

 
木造駅舎に揺れる花
 
 三十八社駅を出発して田園風景を眺めながら2.1キロ。福武線で最も長い駅区間を電車に揺られると、左手にログハウス風の駅舎が見えてくる。
 ホームに列車が到着後、程なく向かい側のホームには上りの武生新行きが滑り込んできた。ダイヤの大半で上下線の列車がすれ違う主要駅。福井市で最初の急行停車駅でもある。足羽高校にも近く、昨年度の駅利用者約13万8000人は、鉄道区間の武生新―福井新では武生新、水落に次ぐ3番目の人数だ。

浅水駅

ログハウス風駅舎の前に地元住民が手入れをする花々が揺れる浅水駅

 構内の踏切を渡って駅舎に入ると、ほんのりと木の香りが漂う。1992年改築の木造駅舎。吹き抜けの待合室を通って外に出ると、線路沿いの花壇では季節の花々が風に揺れている。
 麻生津公民館の高齢者学級「あさむつ大学」に参加しているお年寄りが手入れする自慢の花壇。今春はパンジーが咲き誇り、これから迎える夏本番はベゴニアやニチニチソウが美しさを競う。
 花壇の向かいには、パークアンドライド用の県営有料駐車場。管理する浅水駅によると、月決め約30台分は「毎月ほぼ満席」だという。

浅水駅の地図

 浅水は路線に5つある有人駅の一つ。駅員の新清敏雄さん(越前市)は、47年前に福井鉄道に入社した。「若いころは貨物列車をつないだ電気機関車を運転し、浅水駅に米や肥料、ガスなんかを運んだもんや」。その言葉を裏付けるように、現在も線路に隣接してJAの倉庫やガス会社が存在。構内にある引き込み線の横には、かつて貨物列車用に使っていたというホームも残っている。「電気機関車が活躍していた昭和の時代が懐かしいね」。新清さんの目線の先で雑草に囲まれて“眠るホーム”が、時の流れを感じさせる。
 今月65歳となった新清さんは8日付で定年退職を迎えた。一方、同社では今年、4人の新人運転士が研修を終えて現場デビューを果たす。新清さんは「若い人材が育っていることが心強い。住民の足として、冬期間の大量輸送手段として重要な福武線を守っていってほしい」と後輩にエールを送っている。

2008年7月10日(木曜日)

 (11) 三十八社 福井市下江尻町

 
2市の境界またぐ駅
 
 鯖江市の鳥羽中駅を出発した下り電車は、左に大きく90度カーブし北に向きを変える。浅水川の鉄橋を渡り車窓から右側の文殊山を眺めていると、福井市の南端の駅、三十八社駅に到着。複雑に入り組んだ鯖江市と福井市の境界線に張り付いたような位置に駅は存在する。駅舎は福井市、ホームは両市にまたがっている。

三十八社駅

ホームの奥は福井市、手前は鯖江市。両市にまたがっている福井市下江尻町の三十八社駅

 福井鉄道の記録によると三十八社駅ができたのは1935(昭和10)年。しかし駅名の由来と見られる福井市三十八社町は、同駅から下江尻町を挟み約1キロ北に位置する。なぜか。
 福鉄に40年近く勤めた中村美代子さん(79)=三十八社町=によると、最初の駅舎は現在地から約1キロ北の三十八社町近くにあった。その駅に雷が落ち、再建を目指していたが、土地がらみの問題で現在の場所に移転したのだという。
 現在、無人駅で駅舎は使われていない。同駅南西には、鯖江市鳥羽2丁目の新興住宅が立ち並ぶ。のどかな田園風景が広がる東側一帯も含め、鯖江に取り囲まれるように位置している。

三十八社駅の地図

 昨年度の利用者は2万人強。通勤・通学定期の利用者は約1万3500人で、福鉄の駅では最も高く7割弱を占める。数としては決して多くはないが、会社員や学生の足としては欠かせない駅になっている。
 「福井に行くにも鯖江に行くにもよく乗った」と振り返る84歳女性(鯖江市鳥羽2丁目)。「車に乗れない学生のためにも大切。あるものは無くさないでほしい」と話す。小さい駅だが、二つの市を結ぶ“くさび”の役目を果たしている。

2008年7月9日(水曜日)

 (10) 丹南、県都結び90年超

 
最盛期は970万人の足に
2線路廃止、人員整理も
 
 「戦前、戸ノ口にいるいとこの家まで行くのによく利用してました。車はぜいたく品で、どこへ出掛けるにも電車でした」

デキ1形と低床車両

デキ1形(左)の横を走る低床車両=越前市北府2丁目

 越前市の無職上田道子さん(84)は当時を懐かしむ。福井鉄道は旧武生市と福井市だけでなく、かつては旧織田町、鯖江市戸口町まで伸び、人やモノを運んだ大動脈だった。しかし、庶民の交通手段の主役はやがて車に代わった。
 戸ノ口方面と旧武生市を結んだ南越線は1981(昭和56)年に廃線となった。「足がなくなった。電車がないと不便です」。上田さんは寂しがる。
 県民とともに走り続けてきた福井鉄道は、前身の経営体を含めると90年以上にも及ぶ。丹南と県都を結ぶ歴史を振り返ってみよう。
 福井鉄道は1912年4月に設立された武岡軽便鉄道(後に南越鉄道へ商号変更)が前身。旧武生市の中心部と旧今立町を結ぶ貨物鉄道として出発した。14年、新武生―五分市間開通を皮切りに、粟田部、岡本新、鯖江市の戸ノ口まで延伸した。
 21年に福武電鉄が設立され、24年から武生新―兵営(現在の神明)間が開業。33年には福井駅前までレールを延ばした。41年に南越鉄道と合併。鯖江―織田間を結ぶ鯖浦電鉄と45年に合併し福井鉄道となった。路線は最長となったが、一方でモータリゼーションが拡大し、乗客が減り、経営が厳しくなる。

利用者の推移

 営業収支は63年度から赤字に転落。乗客数は翌年度の971万5千人をピークに減少の一途をたどった。佐々木常雄専務は「春先の恒例行事だったストによる影響もあり電車離れが進んだ」と分析。1000人を超える人員の削減や駅の整理にメスを入れ、さらに丹南全体に広がった路線を縮小していった。
 73年に鯖浦線、81年には南越線が廃線。68年から名古屋鉄道が経営に乗り出し、83年からは旧武生市と鯖江市が支援を始めた。翌年ワンマン化を導入、駅の無人化が図られた。
 一方、並行するJRは通勤時間帯の本数を増やし、競争が激化。2007年度は乗客数が161万人と過去最少に落ち込んだ。越前市内3駅の客数は計約28万人、鯖江市内六駅では約42万人。JRの安い運賃に太刀打ちできず、累積債務は約30億円に膨らんだ。
 利便性と安全性を高め乗客を呼び戻そうと、06年4月から乗降口が約50センチ低い低床車両を導入。これまでクリーム色に濃紺の帯を配した同社標準色からイメージを一新、白の車体に海を表す青、野山を表現する緑を取り入れたデザインに。スムーズな加速を生かし、駅をもっと増やしこまめに駆け抜ける構想もある。

鯖浦線と南越線

 越前市北府2丁目の同社車両工場では、60年に製造された200形旅客車の点検が進む。最長老のデキ10形は23年製造の除雪車で現役。51年製デキ1形とともに一休み。入社18年目の三村康夫さん(37)は「きちんと整備すれば長く走る。おかしいと思ったら徹底的に検査しています」と汗をぬぐう。
 その横を、時の流れを象徴するかのように低床車両がすうーっと走り去った。

2008年7月8日(火曜日)

 (9) 鳥羽中 鯖江市神明町5丁目

 
路線唯一の東西進行
 
 神明駅を出て、民家と木立にはさまれるように北進した電車は、浅水川の手前で急な右カーブを描いて鳥羽中駅に入る。福武線の駅のホームは南北方向に向いているが、鳥羽中だけは東西方向に進む。戦前、川向こうに鯖江連隊の射撃場がありそれを迂回するルートをとったと見られている。

鳥羽中駅

手前の踏切の道は旧北国街道。駅舎横から手前に伸びる自転車置き場には高校生や会社員らの自転車が並んでいる

 1935(昭和10)年10月に開業、1971(昭和46)年から無人化となった。
 「カチッ」。毎朝午前5時半ごろ、駅のホーム西側にある踏切のスイッチが入る。駅の北隣に家を構える前田幹夫さん(59)=神明町5丁目=は「この音を聞くと、一日が始まった気になる」と話す。父親は福井鉄道の運転士だった。小学生のころ、父親が泊まり勤務のときは電車に乗って福井まで弁当を届けていた。幼いときから駅や電車は身近な存在だった。
 母親の和江さん(80)も7年前まで約50年近く自宅で商店を営み、“駅の売店”の役割を担っていた。「お菓子や食材、生活雑貨なんでも売っていた。客のほとんどは駅利用者。駅の休憩所のような存在だったみたい」と和江さんはにぎわった当時を振り返る。

鳥羽中駅の地図

 1950―60年代、駅の周辺には繊維や眼鏡関係の工場が集まり、武生や福井から多くの人が働きに来ていた。自宅の前を通る旧北国街道にはバスが走り、活気があったという。しかし、次々に工場が閉鎖。自動車の普及も重なり、駅利用者の数も減っていった。幹夫さんは「毎日電車を見て大きくなった。あって当たり前のもの。駅を必要とする人は多い。特に学生やお年寄りにとってはなくてはならない」。
 無人駅も朝は自転車や親の車でやって来る学生、徒歩の会社員らが集まり、ちょっとしたにぎわいを見せる。「カンカンカン…」。踏切の音が聞こえると電車が入り込んでくる。乗客を乗せて出発。また静かになる。閑静な住宅街にひっそりと存在する鳥羽中駅。しっかりと人々の生活を支えている。

2008年7月5日(土曜日)

 (8) 神 明 鯖江市神明町2丁目

 
時代とともに名変え
利用客 鯖江で最多
 
 「神明」の駅名は、時代の流れとともに変化していった。1924(大正13)年の開設時、近くに旧陸軍鯖江三十六連隊の兵舎があり、名称は「兵営」。1939(昭和14)年には、路線のほぼ真ん中であることから「中央」に、戦後の1946(昭和21)年に「神明」になった。

神明駅

鯖江市内の駅で年間利用客数が一番多い神明駅。バスロータリーがあり、越前町方面に向かうバスも出る

 線路の西側に旧国道8号(現県道福井鯖江線)が開通したことに伴い、1958(昭和33)年に線路東側にあった駅舎は西側に移設され、現在に至る。市内で唯一のバスロータリーを持ち、福鉄バスやコミュニティーバスが乗り付ける。
 駅正面からは越前町に向かう国道417号がまっすぐ伸びる。駅舎東側の徒歩圏内には、温泉施設「神明苑」や国指定文化財「旧瓜生家住宅」、兜山古墳がある。

神明駅のホーム

電車に乗り込む乗客。朝のピーク時は一度に30−40人が利用する

 年間利用客数は約20万人と、市内6駅の中で最多。「朝は乗る人。夕方は降りる人が多いのが特徴」と話すのは駅員の谷口晶治さん(62)。駅員は基本的に1人体制だが、乗降客が込み合う平日午前7―8時と午後4時以降は2人体制になる。
 窓口では乗車券のほか、高速バスの乗車券を買い求める人も多い。
2006年にホームを低床にした際、駅舎東側から線路を渡り駅舎に向かう通路を整備。「利用しやすくなった」と地元住民の評判もいい。

神明駅の地図

 谷口さんはこれまで福井新、浅水の駅勤務を経て08年2月に同駅に着任。本年度中に定年を迎える。「神明は3つの中で1番活気がある。掃除やあいさつなどありきたりだけど、みんなが気持ちよく利用できるように心掛けているよ」。乗降客を見つめる目は温かい。

2008年7月4日(金曜日)

 (7) 水 落 鯖江市水落町2丁目

 
パーク&ライド効果大
かつて鯖浦線と接続
 
 福武線「水落駅」に隣接する県営水落駐車場。市街地への通勤マイカーの混雑を避けるため、2005年10月に開始された無料の「パークアンドライド」駐車場で、80台分のスペースは、毎朝ほぼ満車。マイカーを止めたサラリーマンらは、次々と水落駅のホームから電車に乗り込む。
 福武線の駅別利用者を07年度と10年間前を比較すると、大きく落ち込むなか、西武生、水落の2駅だけが増えている。このうち、水落は1.5倍。4年連続の利用者増と大きな効果を挙げている。

水落駅と駐車場

水落駅を出る武生新行きの上り電車。手前にはライドアンドパークの駐車場が見える

 福井駅前で働く鯖江市のOL(25)は「2年前から使っている。帰りの電車の終電は午後10時20分発なので、ぜいたくを言えばもう少し遅ければ」と言うが、満足そう。近隣だけでなく旧今立町など越前市からの利用者もいる。
 水落駅といえば、年配者には同駅で接続していた「鯖(せい)浦(ほ)線」の名前を思い浮かべる人も多い。JR鯖江駅から水落を経由し、西田中、樫津、織田まで延びていた鯖浦電気鉄道の路線で、もともとは越前町四ケ浦まで延伸する計画で鯖浦線と名付けられた。1945(昭和20)年に福井鉄道に合併された。

水落駅の地図

 水落町3丁目に住む会社社長で鯖江商工会議所副会頭の兜(かぶと)信夫さん(73)は、市内平井町の生まれ育ち。水落駅の一つ西田中寄りの「越前平(へ)井(い)」から鯖浦線に乗車、水落で福武線に乗り換え神明駅で下車、中央中に通った。「水落駅は立体交差になっており、階段を上がって福武線に乗り換えた。電車は乗客が多くてドアを閉めないで身を乗り出したままの人もいた」と懐かしそう。
 1959(昭和34年)に水落駅は、約300メートル福井寄りに移設され現在の場所へ。鯖浦線は、織田から福井へ直接乗り入れもできるようになった。しかし、1972(昭和47)年に西田中―織田間が廃止となり、翌1973年には、水落―西田中間も廃止となって全線廃止された。

2008年7月2日(水曜日)

 (6) 西山公園
       鯖江市長泉寺町1丁目

年1度“つつじの宴”
 
 「西山公園駅」は、その名前の通り、鯖江市民の憩いの場、西山公園の最寄り駅だ。以前は「下鯖江駅」と言ったが、1987年に改称された。木造のレトロな駅舎は、通常は無人駅。入り口には今ではすっかり見かけなくなった電話ボックスが立つ。待合室には木のベンチが置かれ、掲げられた産婦人科の古い看板も、駅舎に懐かしい雰囲気を漂わせている。

西山公園駅

鯖江の名所、西山公園への最寄り駅=同市長泉寺町1丁目

 福武線は、西山公園の東側、通称東山のふもとを走る。線路を挟んで反対側は民家の裏で、軒下をかすめるように電車が通る。
 この駅で降りて、50メートルも歩けば、嚮陽庭園の入り口がある。藩主、間部詮(あき)勝(かつ)公が領民の遊覧用に造らせた「嚮陽渓」が起源。坂道を上るにつれて下、中、上段の庭園が整備されている。騒々しさとは無縁な場所だ。国道417号をはさんだ西側には、芝生広場、噴水、レッサーパンダなどがいる動物園がある。一帯は「つつじ公園」としておなじみ。

西山公園駅の地図

 普段は、この駅を使う人はまばらだが、ゴールデンウイークに開かれるつつじまつりの期間中ばかりは、乗降客で大混雑するため、駅員さんが出て対応する。
 駅のすぐ近くに住む牧野幸子さん(66)は、「会社員時代、神明駅まで定期で通った。そのころは乗客も多かった。息子も娘も福武線で福井の高校に通った」と福武線についての思いは強い。「警報機がチンチン鳴り始めて家を出ても電車に間に合います」と笑った。

2008年7月1日(火曜日)

 (5) 西鯖江 鯖江市桜町1丁目

 
中心市街地の玄関口
2階に公民館を収容
 
 西鯖江駅は、中心市街地への玄関口を担っている。約200メートルの距離にある市嚮陽会館をはじめ、市民ホールつつじ、本山誠照寺、商店街へはいずれも500メートル圏内。西山公園や植田家長屋門や恵美写真館、地蔵橋など名所も約1キロ圏内にあり、まちなか散策への利用が期待されている。年間乗降客は約12万4000人。

福井方面に向かう電車

西鯖江駅を出発し、交通量の激しい県道踏切を越え、福井方面に向かう電車=鯖江市桜町3丁目

 福鉄の前身、福武電鉄が武生新から神明駅までの営業を開始した1924(大正13)年に置かれた主要駅。駅員の宿泊所や売店を備えた木造平屋建ての駅舎が老朽化したため1995(平成7)年に、鉄骨2階建て三角屋根を配した近代的なクリーム色の新しい駅舎に生まれ変わった。

西鯖江駅周辺の地図

 女性駅員2人が交代で常駐。電車が近づくたび、「○○方面行き急行が入ります」と柔らかな声が駅構内に響く。10席ほどの待合室では乗客がテレビを見たりおしゃべりして待ち時間を過ごす。いつもきれいに掃除され気持ちのいい駅舎だ。
 駅舎を背にして右手には約200台分の駐輪場、左手にはタクシー乗り場。駅正面には、利用者にはなじみの「たこ焼き」店がある。お客の半分は高校生だが電車に乗って買いに来るファンもいるという。

西鯖江駅

桜町公民館が2階に同居する西鯖江駅=鯖江市桜町1丁目

 現駅舎には、もうひとつ顔がある。13年前の建て替えの際、市との協議で地元公民館を収容した複合施設とすることが決定。2階に桜町公民館が同居した。
 和室や集会室は、子供会や老人会、女性の会などさまざまな会の会合、地元太鼓グループの練習に活用されている。岡田利栄区長(65)は「まちの集会場としてもなくてはならない施設になっている」と話す。
 公民館には、地区民からの応募で決まった「さくらんぼ会館」の愛称がある。入り口がある北側の壁面は、サクラとツツジの花をデザインした特注タイルのレリーフに彩られ、駅舎全体を優しく印象づけている。

2008年6月28日(土曜日)

 (4) 上鯖江 鯖江市舟津町3丁目

 
坂道を上れば鯖江高
 
 日野川鉄橋を渡って鯖江市内に入った下り電車は、緩やかに左カーブし住宅地の間を上鯖江駅へ進む。
 上鯖江駅の開業は1929(昭和4)年。駅員の宿泊所も備えた木造平屋建ての旧駅舎は90(平成2)年、待合室と一本ホームが一体化した鉄骨平屋建ての現駅舎に改築され無人化となった。
 「車が普及する前、昭和30―40年代前半までは、近くの鯖江高の生徒、織物の会社に勤める大勢の人が乗降したんですよ」。30年代後半、同駅に勤務した運輸管理区長代行の中村和明さん(63)は振り返る。

上鯖江駅

午前8時ごろ、上鯖江駅に降り立つ鯖江高の生徒たち=鯖江市舟津町3丁目

 当時は上下線2本のホームとレールがあった。「両ホームいっぱいに人があふれ、電車に乗れない人もいた」。駅舎の向かいに残る草に覆われたかつての下りホームが、名残をとどめる。
 駅が活気づくのは朝、夕。坂道を歩いて約8分の所に位置する鯖江高の生徒を中心に福井、越前両市方面への通勤、通学客が行き交う。

上鯖江駅の地図

 毎朝午前7時すぎ。近くの野村キヨノさん(78)が、ほうき片手に駅舎の掃除に訪れる。電車は自らも利用した通勤の足。駅舎に散らかったごみや切符を目にし、「仕事を辞めたら駅の掃除を」と始めて4年。「おはよう」「いってらっしゃい」「ごくろうさま」。高校生と交わす笑顔のあいさつがエネルギーになる。「電車がないと生徒さんも困る。いい方向に向かってほしいね」。
 近くには、天井絵で知られる萬慶寺や国史跡で環境整備工事が終わった王山古墳群、車の道場など史跡が点在する。サンドーム福井までは徒歩約15分。最寄り駅であることをPRし、利用を呼び掛けている。

2008年6月27日(金曜日)

 (3) 家久 越前市家久町

 
右側通行でホームへ
 
 「福井地震のとき、家久駅に電車が2、3両止まっていて、床に敷物を敷いて近所の人が中にいたのを覚えている。余震があったんで怖かったんでしょうか」
 家久駅のすぐ線路わきで料理仕出し「魚竹」を営む竹内理さん(65)は当時を振り返る。1948年6月28日夕に発生した福井地震。停電のため福武線の電車は最寄りの駅にストップした。駅舎が遊び場の一つだった竹内さんは「駅の東側の県道を走る救援の車もよく覚えている」と調理の手を休め話した。

家久駅

高校生の足として欠かせない家久駅=越前市家久町

 60年前の家久町は吉野瀬川沿いに広がる水田地帯。次第に住宅地が増え、今や約870世帯もある越前市最大級の町になった。それでも「ぽつんと立つ木造駅舎だけは昔の風景そのまま」と近所の住民は言う。
 家久駅に特別の思い出を持つのは同町の岡永勇さん(66)幸子さん(59)夫妻。勇さんが福鉄社員だった関係で、幸子さんが1972年から約7年間、駅の委託業務を担当した。
 「改札、運賃回収、定期券やたばこ販売。冬は雪かき。通勤通学の時間帯は忙しかった。うちの子どもをおんぶして仕事をしてました」と幸子さん。運転士だった勇さんも休日には妻の代役を務めた。近くの武生商業高に電車通学する生徒が多く、無人駅にしにくかったらしい。夫婦での「駅番」はほかに例はなかった。
 勇さんら福鉄マンらは同駅のもう一つの「異例」を明かす。一本ホームに進入する電車は、通常は進行方向に左側通行だが、家久は右側通行。駅舎が南隅にあり、線路を横切りプラットホームに出る客の安全性を確保するためだ。
 ホームの右側を発車した福井方面行き電車は、日野川鉄橋を渡り鯖江市に入る。

2008年6月26日(木曜日)

 (2) 西武生 越前市北府2丁目

 
古さ 可能性兼ね備え
玄関口と拠点駅の顔
 
 武生新駅から民家の軒先をかすめるように1分ほど。「カン、カン、カン…」。踏切の警報音を後に、電車は右カーブを切って駅構内に滑り込む。こぢんまりとした駅舎。引き込み線に入った電車。まるで鉄道駅の原風景。対照的にその背後には大きな車庫、さらに福井鉄道本社ビルが立ち並ぶ。

車両工場

駅構内にある車両工場で進む点検作業

 西武生駅。広さ2万4000平方メートルの敷地を有する福鉄本社の一画にある。
 越前市街地への玄関口の一方で、福鉄の拠点駅としての顔も併せ持つ。「車両基地、バス営業所などもあり、ここは技術部門、管理の中枢です」と今枝孝司・福鉄常務取締役鉄道部長は話す。
 木造平屋、瓦ぶきの駅舎は1924(大正13)年2月に産声をあげた。無人駅となった90年以降、事務室などは閉鎖されたが、84歳の長老駅には味わいがある。
 白壁塗りの待合室には、使い込まれて黒光りする木製の長いすや、ガラス窓が付いた改札台がある。半分ほどのスペースは乗降客の自転車置き場。プラットホームは低床電車対応にきれいに改修された。

西武生駅(中央)

市街地への玄関口と拠点駅の顔を持つ西武生駅(中央)=越前市北府2丁目

 駅舎隣にある「福鉄理容所」で、長年理容師として働く塩谷昭次さん(67)=越前市=は「車両用の木工所や、売店への物品供給施設もあり社員が多かった時代もあった。ここは休む暇もなかったね」。昔を懐かしむ一方で「今も朝晩はお客さんが結構乗っている。家族を送る車が猛スピードで駆け込んでくるよ」。
 急行が止まるようになって武生高生の利用も多い。福武線で10年前と比べて利用者が増えているのはたった2駅。西武生はその一つ。古さと、可能性を兼ね備えた不思議な空間だ。

2008年6月25日(水曜日)

 (1) 武生新 越前市府中3丁目

 
丹南公共交通の要所
営業開始は大正時代
 
 午前7時すぎ。福井鉄道福武線の始発駅、武生新。3階建て駅舎1階の改札口には通勤、通学客が次々やってくる。その約8割が福井、鯖江方面へ向かう高校生たち。平日の7時台の福井方面行きは他の時間帯の2倍の計6本が発車する。3本あるホームが一番活気づくひとときだ。

 駅南にはアルプラザ武生ビルやJR武生駅が連なる。通りの反対側には昔からの商店、飲食店が並ぶ。駅舎の前には小さな広場もあり、タクシー乗り場もある。JRや路線バスと乗り継ぐターミナル駅は、丹南の公共交通の要。鯖江や丹生郡方面から武生の高校へ通った人たちには、JRよりもこちらに親しみを持つ人も多い。

次々乗り込む高校生ら

午前7時すぎ、福井行きの電車に次々乗り込む高校生ら=武生新駅

 武生新駅が営業開始したのは福鉄の前身、福武電鉄時代の1924(大正13)年。当初は神明駅(鯖江市)までだったが、25年には福井市中心部まで延伸。現駅舎は83年に新築された。
 福鉄鉄道部運輸指導担当主幹の薄田保男さん(61)は62(昭和37)年入社。運転士や運転指令などとして46年間、レールや駅と歩んできた。
 「新人のころ、朝のラッシュ時は定員100人ほどの車両に200人ぐらい乗っていたと思う。鯖江方面の駅に行って入り切らないお客さんを押し込むのが僕らの仕事の一つでした」。プラットホームを見下ろす駅舎3階の休憩兼宿直室で当時を懐かしむ。

武生新駅

2本のプラットホームが伸びる武生新駅。東隣(右側)はJR北陸線

 朝夕を含め福武線の利用客は伸び悩んでいる。2003年度以降の利用者は161万―163万人台。10年前の200万人近くから割り込んだまま。路面電車部分を除くと最も乗客の多い武生新駅の利用客も07年度は22万2000人で、前年度を下回った。マイカー通勤が増える一方、少子化による高校生減なども痛手となっている。
 高校生たちに交じって列車を待つ警備会社勤務の男性(56)=南越前町=は「最近、目の手術をして車を運転できない。電車が通院先の近くを通るので助かる」。存続問題が持ち上がる今「福井は雪も降る。いざというときは鉄道が頼り。福武線はぜひ残してほしい」と訴えた。
 現場の職員たちも懸命に電車を走らせている。薄田さんは「この会社を良くして、共に働きたい、というのが私たちの思い。皆、歯を食いしばって頑張っている」と話した。
 
  ◇  ◇  ◇
 
 地球温暖化、ガソリン値上げが進む中、公共交通機関、特に鉄路の重要性が高まりつつある。学生、お年寄りら地域の大事な足としての鉄道を、駅という視点で紹介する。初回シリーズは福井鉄道福武線。

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