継体天皇が生きた時代を学ぶ歴史講座「継体天皇の時代Ⅱ—その頃(ころ)の日本」が二十日、福井市の県国際交流会館で開かれた。和田晴吾立命館大教授が、古墳の形態や規模から、当時の国内外の政治的情勢を解説。県内外の約二百五十人の古代史ファンが、本県ゆかりの「継体」が国の指導者へと駆け上がった時代背景について理解を深めた。

 即位千五百年を機にゆかりの偉人について深く学んでもらおうと、同市と歴史のみえるまちづくり協会が企画した。本県や北陸の状況をテーマに昨年十二月に開かれた「その頃の越(こし)」編に続き二回目。

 継体天皇の時代の古墳に詳しい和田教授は、古墳の形状の変化を示しながら、即位を挟む四世紀後半から六世紀半ばの国内情勢と朝鮮半島とのつながりを説いた。

 継体天皇が即位する前の四世紀後半から五世紀半ばまでは、古墳群が巨大な前方後円墳を中心に、小さなものや円墳が並んでいることから「大王を頂点とする地方の大首長が、中小首長を支配する首長連合体制だった」と説明。その後の即位が王権の動揺期だったことも古墳と関連づけて解説し、「継体の時代は動揺期を乗り切り、後の国家的展開の基礎をつくった」と話した。

 また、六世紀前半に九州地方型の横穴式石室が北陸や瀬戸内、伊勢湾地域に広がっていったことから「当時、九州の勢力が力を持っており、継体の有力な支持者だったのではないか。最終的に中央集権の邪魔になり、反乱という形の対立が起こった」との推論を披露した。

 さらに継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の「今城塚古墳」のひつぎの変化から、「中期の大王家と血統的なつながりは薄いが、古墳の外形から王権を継承しているという主張が強く表れている」とした。