坂本龍馬と由利公正が会談した莨屋旅館跡=福井市照手1丁目

 幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。

 新たに発見された龍馬の書状からは、激動の幕末維新期に福井藩の果たした役割の大きさがみえてくる。その背後に、ともに平和路線を目指した龍馬と福井藩の強い結びつきがあった。

 書状で龍馬は、前福井藩主松平春嶽の上京について「千万の兵を得た」と記した。当時、大政奉還は決まったが、薩長の武力討幕派と幕府側が激しく対立していた。

 福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は「政事総裁職も務めた春嶽の動きを周囲は注目していた。流血を避けたかった龍馬は、中立的で(雄藩連合を主張する)公儀政体派の春嶽の上洛(じょうらく)によって、武力討幕派と幕府を支持する佐幕派が一つにまとまると期待したのだろう」とみる。

 幕末史は討幕と佐幕の2極で語られがちだが、「福井藩のように、平和的に朝廷と幕府の共存共栄を目指した第3極の存在の重要さがよく分かる書状」と角鹿館長。

 一方、こうした動きに呼応した龍馬が、政治の“表舞台”に立つきっかけをつくったのが福井藩だった。

 土佐藩脱藩の年、江戸の福井藩邸で龍馬は春嶽と面会した。通常、一介の浪人が藩主に面会することはありえない。両者を取り持ったとみられるのが、今回の書状の宛名、春嶽の近臣中根雪江(せっこう)だ。角鹿館長は「面会させる人物は中根が吟味していたはず。頭角を表し始めた志士らの情報に、常にアンテナを張っていたのだろう」と推測する。

 勝海舟の門下となった龍馬は1863年、勝の使者として福井へ春嶽を訪ね、海軍操練所建設資金の支援を求めた。これに対して、福井藩は5千両(千両説も)もの大金を工面。龍馬に対しても同年、活動資金として15両が中根から渡された。姉への手紙で龍馬は「一大藩(福井藩)に頼みにされ、金が必要なら10両20両くらいはなんでもない」と記している。

 龍馬は少なくとも2回は福井を訪問。暗殺される約2週間前には、莨屋(たばこや)旅館で三岡八郎と長時間にわたり新政府の富国策を論じあった。「龍馬の歴史舞台の活躍は、福井で始まり、福井行きの旅が最後だった」と角鹿館長。今回の書状を確認した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「中根の存在を含め、龍馬と福井藩との関わりに関する研究が一層進展するはず」と期待していた。

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