国宝称名寺聖教のうち「上素帖」。傍線部に「大(泰)澄大師」と書かれている(称名寺所蔵・神奈川県立金沢文庫管理)

 平安時代後期に、平泉寺(福井県勝山市の現平泉寺白山神社)で行われた大講堂の落慶法要について記した文献が見つかった。比叡山延暦寺から導師を招いていたことや、6体の仏像を安置した大講堂の内部空間が判明。白山を開いたとされる「泰澄大師」の名や旧跡も記され、この時期に泰澄伝承が広まっていたことも分かった。専門家は、平泉寺の歴史や泰澄研究の重要な史料とみている。

 文献は、国宝称名寺聖教(しょうぎょう)「上素帖(じょうそじょう)」。この中から、東大史料編纂所特任研究員の阿部美香さんが平泉寺の「堂供養」に関する2点の史料を発見し、このほど福井市で開かれた学術団体「藝林会」の研究大会で発表した。

 平泉寺伽藍(がらん)の中心である大講堂は再建され、1172(承安2)年7月に落慶法要が営まれた。史料にはその際に用いられた仏事の旨趣が記されている。延暦寺の学僧永弁が導師をつとめた。作者は「平家物語」にも登場する説法の名手、安居院澄憲(あぐいちょうけん)。大講堂には釈迦(しゃか)、弥陀(みだ)、薬師の3体と観音、不動、毘沙門(びしゃもん)の3体の仏像がともに安置されていたことが判明した。

 中世の境内を描いたとされる絵図によると、大講堂は拝殿の前、北谷を背にした位置にあった。16世紀半ばに一向一揆により焼失するが、平安後期には「七間四面」の大きな建物であったことも分かった。

 史料は白山開山についても触れ、「大(泰)澄大師」の名を挙げ、神力で龍王(りゅうおう)をあらわし、「北谷」が泰澄の住んでいたゆかりの地であるとしている。阿部さんは、通常は天皇から高僧に下賜される大師の称号が用いられている点に注目。この当時、ほかにも泰澄大師と記した文献があり「泰澄が大師であるとの共通認識ができあがっていた」とみている。

 また、勝山市教委の宝珍伸一郎学芸員によると、現在の北谷は白山神社北側の広い地域をいうが、北谷は現在の泰澄大師廟(供養塔)のある場所の字名でもあり、中世の境内絵図では大師堂となっている。「史料が大師ゆかりの地とする北谷と、この場所はぴったり符号する」と宝珍さんは語る。

 泰澄は、「伝記」によると今から1300年前の717年に白山を開いたとされ、平泉寺は白山信仰の拠点の一つ越前馬場(ばんば)となった。平泉寺の寺号が確認できる最古の記録は1163年で、今回の史料はその9年後。平泉寺は12世紀半ばには延暦寺の末寺となり栄えていった。中世の最盛期には、北谷と南谷合わせて6千坊といわれる全国屈指の宗教都市に発展した。

 現在は、国史跡白山平泉寺旧境内として発掘調査や史跡整備が行われている。

 今回見つかった史料について阿部さんは「平泉寺の復興を延暦寺がバックアップしていたことが分かった。平安期の平泉寺の史料は少なく、確実な史料が出現した意義は大きい」と話している。

 
 【国宝称名寺聖教】真言律宗の古刹(こさつ)称名寺(横浜市)に伝来する仏教の教えなどを記した1万6千点を超える史料群。その一部「上素帖」は、仏事や法会の旨趣などを記した「表白」23編を収める。全て平安時代に後白河法皇に仕えた安居院澄憲の作。1222年に書き写され、称名寺3代長老湛睿(たんえい)が所持していた。神奈川県立金沢文庫に寄託されている。

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