【論説】1500人以上の犠牲者を出した1945年の福井空襲から、19日で丸73年が過ぎた。同年7、8月に3度にわたった敦賀への空襲とともに、福井県民が記憶にとどめておきたい日である。福井空襲では市街地の8割以上が焼夷(しょうい)弾の無差別爆撃で焼き払われた。罪のない人たちが惨劇に遭った理由は何だったのか。事実を後世に伝え、「なぜ」を考え続けたい。

 「福井空襲史」に所収の米側資料などによると、来襲したのはテニアン島の基地のB29爆撃機127機。3種類9466発の焼夷弾が午後11時24分から81分間にわたって落とされ、市街地の損壊率は84・8%に達した。

 「本土空襲と占領日本」(太平洋戦争研究会)には福井空襲の爆撃は市街地の周辺部から始まり中心部へ向かって行われたとある。これにより人々は逃げる場所を奪われ、県庁のお堀に逃れようとした多くの人がそこで力尽きた。戦時だったから、死者のうち900人以上が女性だった。

 米軍の本土空襲は当初、軍需工場などを狙った「精密爆撃」が主だった。45年1月、カーチス・ルメイ将軍が責任者になると大都市市街地の無差別爆撃が繰り返され、さらに中小都市も狙われるようになった。被災した都市は福井や敦賀をはじめ全国200以上。当時、「北陸には大きな軍事施設や工場はなかった」(同書)が、富山でも市街地の98%以上が焼かれ、2千人以上が死亡している。全国の死者は、20数万人とも50万人ともいわれ、さらに大きな数字が出ている調査もあり、確定していない。

 本土空襲は、一般国民の命を米軍が意図的に標的にした、戦時でも極めて残忍な行為だった。福井空襲史に松平永芳氏が寄せた文章は、東京大空襲(45年3月10日)について「史上未(いま)だ曽(かつ)て例のない非人道的な、無辜(むこ)の国民焼払い戦法」と悲憤を連ねている。

 加えて米軍の空襲に対する日本の防空は、何もないに等しかった。福井空襲の米側資料は日本側の対空砲火を「貧弱、不正確」などと記し、迎撃機による損害は全くのゼロ。住民は完全に無防備な状態なまま、焼夷弾の雨にさらされた。

 なぜ米軍はそこまで非道になり、なぜ日本軍は人々をそこまで追い込みながら戦争を続けたか。私たちはどうしたら過ちを繰り返さずに済むのか。原爆投下を被爆地の人たちが世界に発信し、沖縄戦の悲劇を地元の人たちが伝えているように、福井、敦賀の空襲をしっかりと語り継ぎ、答えに少しでも近づきたい。

 福井空襲では「福井大空襲を語り継ぐ会」の努力によって体験画集が発刊されており、記憶をつなぐ貴重な材料になっている。描き手には絵の経験の薄い人たちも多いが、その分、事実の恐ろしさがそのまま伝わってくる。

 3年前は、戦後70年の節目に合わせ、空襲や戦争について記憶を呼び覚ますさまざまな試みが行われた。これからも、同様の努力を継続したい。

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