敦賀西小に立つ敦賀城の案内碑を説明する外岡館長=敦賀市結城町

 福井県敦賀市三島町1丁目の八幡神社に「五三桐(ごさんのきり)」の家紋が刻まれた鬼瓦がひっそりと置かれている。神社北側のかつて敦賀城があったとされる場所から出土したものという。

 敦賀市立博物館の外岡(とのおか)慎一郎館長は「五三桐は、秀吉が豊臣姓を名乗って五七桐(ごしちのきり)(太閤桐)を使う前に用いていた家紋。大谷吉継が自身の家紋ではなく桐紋を刻んだのは、敦賀が秀吉の直轄地のような存在だったことを示している」と指摘。「敦賀城主の大谷吉継は秀吉の信頼と命を受けて、敦賀湊を管理する役割を担っていたのだろう」と推測する。

 当時、京都は戦国時代の長い戦乱を経て、復興工事が急ピッチで進展。敦賀湊は資材を運ぶ重要な拠点で、大坂に経済の中心をつくる秀吉の政策を敦賀で推進していたのも吉継だったという。

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 敦賀城は、1583年ごろから秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が築城を始め、頼隆の病没後に城主となった吉継が拡張整備した。しかし、城の存在は伝承でしかなく、長く「幻の城」と言われてきた。

 状況が一変したのは、敦賀西小で2009年11月から10年3月にかけて行われた市教委の発掘調査だった。校舎の建て替えに伴い660平方メートルの範囲で、深さ約2メートルまで発掘調査したところ、建物の柱の基礎となる礎石が20個以上見つかった。

 発掘調査では同時に、16世紀末から17世紀に相当する地層から炭を含む層も確認された。外岡館長は「関ケ原で吉継が敗れた後、敦賀城で何かあったのかもしれない。仮にこれが火災の痕跡とすれば、1615年の徳川幕府の一国一城令で破壊される前に、城は姿を消した可能性がある。敦賀城は20年ほどしか実在しなかったことになる」と指摘する。

 敦賀西小学校近くの真願寺の場所は、かつての敦賀城の北東に当たる乾門跡という。寺の敷地内には敦賀城の礎石が残され、わずかな期間しか姿をとどめなかった城の存在を今に伝えている。

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 豊臣への忠義と石田三成との友情を重んじ西軍に参戦し、関ケ原で敗れて自刃した敦賀城主の大谷吉継。近年「義の武将」として人気が高まっている。外岡館長とともに、敦賀や関ケ原など県内外のゆかりの地を訪ねる。

 「義の武将大谷吉継」は嶺南ケーブルネットワーク(RCN)との合同企画。下の映像はRCNの番組「つるいち」で放送。

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