若狭湾で見つかった旧日本軍の潜水艦「呂500」の艦橋前部。遠隔操作の無人潜水機が撮影した(ラ・プロンジェ深海工学会提供)

舞鶴沖で見つかった呂500のソナー映像

 呂500は日独とも戦争の状況が不利になってきた1943年日本に譲渡された。日本にインド洋で商船や運搬船を攻撃し物資の流通を止める通商破壊活動を行うことを期待してドイツで量産されているUボートを無償譲渡とした。譲渡されたのはドイツ名U―511。日本が参戦した41年12月に完成し、大西洋のカリブ海やアフリカで通商破壊活動を行い連合軍の商船や補給船を沈めた。

 1943年5月ベルリンに滞在していた日独伊三国同盟の軍事委員だった野村直邦海軍中将や新任の駐日ドイツ大使らを乗せてドイツの占領下にあったフランスロリアンを出港。アフリカ喜望峰回りインド洋を通って日本に向かった。途中連合軍の商船を沈める戦果をあげながら7月に日本の占領下にあったマレーシアのペナンに到着。8月7日に瀬戸内海の呉港に着いた。

 日本到着後9月16日正式に日本に引き渡され呂500と名付けられた。

 翌44年2月にもドイツは2隻目の潜水艦U―1224を譲渡した。呂500はドイツ海軍が操艦したが、2隻目はドイツ国内で譲渡され呂501と命名されて日本海軍によって日本に向かった。しかし大西洋のセネガル沖で連合軍に攻撃され喜望峰を回ることなく沈没した。

 ドイツから同タイプの船を増産することを期待されたが、米艦隊攻撃を目指して日本軍と商戦攻撃を目指したドイツとの戦略の違いや日本も国力に余裕もなかったことなどから建造はされなかった。溶接技術などは参考にされた。日本では実戦任務に就かず標的艦として訓練役だった。大西洋、インド洋、太平洋、大海を巡り瀬戸内海を経て日本海の若狭湾に沈んだ。

 日本軍は排水量1000トン以上を一等潜水艦として「伊」号に1000トン未満を「呂」号に分類した。しかし2隻のドイツ製艦は1137トンと大きかったが「呂」に分類された。またほかの呂号潜水艦は100番台の連番だったのに対して500の数字が付き、特別な船だったことがわかる。

*(下)は福井新聞D刊に掲載

若狭湾で発見呂500、3隻の意義(下)―呂68、伊121には英独と深い縁があった

参考文献
日本潜水艦総覧 (勝目純也著 学研)
日本潜水艦物語 (福井静夫著作集第9巻 光人社)
日本海軍潜水艦史(日本海軍潜水艦史刊行会)
別冊歴史読本 日本海軍艦隊総覧(新人物往来社)
Wikipedia 呂号第五百潜水艦

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