【越山若水】「それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった(中略)変装した五人の男たちが、グラインダーで尖(とが)らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは…」▼村上春樹さんが書いた「アンダーグラウンド」(講談社)は、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件を被害者側から検証したノンフィクションだ▼悪辣(あくらつ)な犯人像が強調される一方、「かわいそうで健全な市民」としてひとくくりにされる被害者たち。その人となりや背景を探るため、62人のインタビューを敢行した▼登場する人々の生の声から、それぞれの生い立ちや仕事ぶり、家庭生活のぬくもりなどが鮮やかに浮かび上がる。それが突然にして暗転する事件のおぞましさが胸に迫ってくる▼オウム真理教によるその事件を首謀した教祖、松本智津夫死刑囚の刑が執行された。国家転覆の妄想の果て、無差別テロなど13事件で29人もの生命を奪う歴史的暴挙だった▼大きな節目といえるが、松本死刑囚は一審の途中から口を閉ざし、事件の核心を語らぬままに舞台から消えた。真相を知る機会はもう二度と訪れない▼多くの若者が「マインドコントロール」で好まざる人物を平然と「ポア(殺害)する」異様さ。後継の信徒は今なお1500人を下らないという。社会の平穏を守り抜く教訓として、事件を風化させてはいけない。

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