中央の九頭竜川堤防を挟んで右側が水没した地域。濁流は西藤島村や中藤島村、福井市の広い範囲に押し寄せた=1948年7月26日、現福井市郡町付近(藤井伊三次郎さん提供)

 7月25日夕。激しい雨が3日間続いていた。細川さんは村の男衆とともに、増水した日野川から農業用水への流入を避けるため、資材で入り口をふさごうとしていた。すると、対岸で住民が叫ぶのが聞こえた。「お前らそんなことやってる場合でない。九頭竜川が切れたぞ」

 西藤島村や中藤島村の九頭竜川堤防は地震のため、沈下や亀裂が各地で生じていた。特に沈下の激しかった現灯明寺中東方の左岸堤防が、増水で決壊。濁流は高さ1メートルほどの津波となり、稲をなぎ倒しながら、自転車をこぐほどの速さで細川さんの仮住まいに迫ってきた。「怖かった。でもどうすることもできなかった」。集落は一気に飲み込まれた。

 高齢者は作業小屋の2階に上げられ、若者は山へと逃げた。最初の破断部分から堤防はどんどん削られ、決壊範囲は約300メートルに及んでいた。水かさは上がり続け、3時間で2メートルを超えた。堤防と堤防に囲まれた西藤島村は完全に水没し、一帯は湖と化した。

 地震後に建てられたバラックはほとんどが流され、本格的な家屋再建のために住民が集めていた柱や垂木は、無残に水面を漂った。田畑の水没が長引けば作物が腐り、翌年の食糧も失う恐れがあった。住民がやむなくその晩、高屋橋付近の堤防をスコップで崩すと、翌日ようやく水が引いていった。

 細川さん一家が貴重な食糧として確保していた米5、6俵もすべて水に漬かった。「川の水で洗って食べた。3日後には腐ってきた」。親戚に分けてもらったジャガイモやキュウリ、どこからか届いた援助物資の乾パンやバターの缶詰で日々の飢えをしのいだ。「子どもながらに、親の手伝いをして何とか立ち直らなあかんと思っていた」。家を建て直し、ようやく普通の生活を取り戻したのは、翌年になってからだった。

 

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