佐佳枝廼社の境内で福井地震からの復興の記憶をたどる福山テル子さん=福井県福井市大手3丁目

 爆風で玄関の戸ごと外に吹き飛ばされ、福井城址のお堀の水をかぶって熱と煙に耐えた1945年の福井空襲。父が宮司を務める佐佳枝廼社(福井県福井市大手3丁目)近くで、命からがら一夜を過ごした福山テル子さん(85)=現名誉宮司=は、焦土と化した市街地を目の当たりにした。それから3年。本殿が全焼した境内では再建作業がまだ続いていた。地響きを感じたのは、福井第一高(現藤島高)から下校し、仮設の社務所で休んでいたときだった。

 「アメリカさん(進駐軍)の戦車がまた来たんかな」。一瞬そう思ったが、すぐに激しい縦揺れに襲われた。逃げようとしても、真っすぐ走れない。廊下の壁に肩をぶつけながら、間一髪で外に飛び出した。「周りの家はほとんどつぶれた。普段見えない向こうの山まで見通せるほどだった」

 がれきから煙が出ているのに気付いた。時刻はその年導入された夏時間で午後5時を回り、密集した家々の多くで夕飯準備の薪がたかれていた。あちこちから火の手が上がり、瞬く間に延焼した。傾いた社務所の中に急いで装束を取りに行くと、出てきた時には火の海が見えた。

 「神さんを出してください」。福山さんの叫び声を聞きつけた神主が、先祖から受け継ぐご神体を本殿から救い出し、境内に掘られていた防空壕に収めた。もう火の手は迫っていた。「竜巻のようにゴーッと炎が渦巻いていた。息もできなかった」。お堀近くの道ばたまで必死で逃げ、境内を包む火が収まるまで何時間も待つことしかできなかった。

 境内は当時、満蒙開拓から引き揚げて行き場を失った福井出身者に開放されており、バラック住まいの100人近くが逃げ惑った。近くに駐留していた米国兵の救助活動もあったが、市街地の多数の人が家の下敷きになったまま、猛火の犠牲になった。

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 戦災から立ち直りかけていた街が、再び焼け野原になった。復興は振り出しに戻った。着の身着のままの生活を強いられながら、それでも市民は前を向いた。「みんな必死だった。国や市に文句を言うでもなく、黙々と自分ができることをやった」

 福山さんの胸には、前年に病気で亡くなった父の遺言があった。「お宮を立派にすることだけを考えて生きよ」。森田地区の神社に身を寄せ、毎日歩いて佐佳枝廼社に通い、がれきの整理に汗を流した。のどが渇くと、焼け跡から拾ったやかんで井戸水をくんで飲んだ。青年団から配られたおにぎりがおいしかった。2年近くかけ、本殿や社務所は復活した。

 2度にわたる壊滅からよみがえった県都は、不死鳥のまちと呼ばれるようになった。佐佳枝廼社は現在、再開発事業によって1992年に整備された拝殿で、多くの参拝客を迎えている。豊かさに囲まれた時代の若者たちに、福山さんは願う。「天変地異はいつ起こるか分からない。もしそうなっても、自分の信念と希望を胸に持って生き抜いてほしい」

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