「呂500」の写真を手に思い出を語る元乗組員の小坂茂さん=6月18日、福井県越前市の福井新聞武生支社

 1945年8月12日前後、訓練中だった呂500に旧ソ連・ウラジオストクへの出撃命令が下り、舞鶴港に帰還して急いで準備を進めた。ドイツ製の艦内は狭く、通路は装備や食料品で埋まり、ベッドの下には巨大な魚雷が並んでいた。舞鶴の軍需工場で富山県出身の人を見つけ、武生で暮らす両親に宛てた遺書代わりの手紙と前払いされた3カ月分の給料を託した。

 8月15日、呂500はラジオの調子が悪く、玉音放送を聞いたほかの潜水艦の乗組員から敗戦を知らされた。それでも乗組員たちの出撃の決意は変わらなかった。「もう生きて戻ることはない」。船体の日の丸の横にドクロのマークを描いた。同18日に終戦命令に背いて出港した際には甲板に整列し、岸壁を埋めた見送りの人たちに敬礼した。

 ウラジオストクに向かって「一晩が過ぎたころ」に本国から繰り返された帰港命令に従うことを決断し、全員が悔し涙を流しながら舞鶴に戻った。ほどなく隊は解散し、武生の実家に戻った。

 呂500が若狭湾に沈められたことは、元乗組員でつくる戦友会の集まりで後に聞かされるまで知らなかった。小坂さんは「あの船体のドクロは残っているだろうか…。もし船体が発見されたらぜひ見てみたい」と話している。

 若狭湾で18日始まった九州工業大の浦環(たまき)特別教授らの調査チームによる呂500の探索では、水深約250メートルで沈没船を確認したが、潜水艦かどうかの特定には至らなかった。探索は21日まで行われる予定。

 調査チームによると、呂500はナチス・ドイツの潜水艦Uボートで全長約76メートル。旧日本海軍に譲渡され練習艦として使われたが、終戦後の1946年4月に連合国軍総司令部(GHQ)が若狭湾で処分したという。

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