産婦人科医のエピソードについて検討する竹内さん(右)と古江さん=福井県敦賀市

 ナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ難民が、特に数多く敦賀港に上陸したのは1940〜41年にかけての冬。それから75年、福井県敦賀市内では当時の市民の温かな受け入れを示す新たな証言も得られている。その“命のビザ”を発給した外交官、故杉原千畝(ちうね)氏(1900〜1986年)は没後30年。5月にも関連資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産に申請される見通しで、市も「人道の港・敦賀」の情報発信に一層力を入れる考えだ。

 ◆命拾い

 「難民部隊続々。敦賀埠頭(ふとう)や敦賀駅頭は文字通りに国際風景を描き出している」—。太平洋戦争勃発を10カ月後に控えた41年2月15日。本紙は敦賀港に降り立つユダヤ難民をそう伝えた。

 上陸は40年8月から41年6月にかけてで2月の報道の日は、「天草丸からはき出された難民は350名で、昨年秋から始めて記録破りの大部隊」だったという。

 3月8日付では「ユダヤ人の氾濫で敦賀駅案内が困惑 警戒すべき内地への移動情勢」と大見出し。日独が同盟関係にあったこともあってか本紙に歓迎ムードは希薄だ。

 そんな世情で市民は、長旅を経た難民にリンゴをあげたり銭湯を開放したりと、温かく迎え入れた。さらに当時の新聞は知られざるエピソードも伝えている。船上で流産によって子どもを失った夫妻が上陸後に受けた治療や、市民の好意に感激したという。

 「医師のすばらしいのに驚いた。上手なドイツ語にラテン語さえ知っている知識の深さ、器用な手つき…」「予想もせぬ好意に満ちた日本の取り扱い、美しい風景、女中はニコニコと氷やパン、ミルクを買ってくれる。このおかげで妻は命拾いをした」

 ◆33番目の証言

 「その医師は私の父です」。産婦人科医の竹内桂一さん(82)=敦賀市=は言い切る。父隆良さんは当時、現相生町に産婦人科医院を開いていた。今月下旬、調査に訪れた日本海地誌調査研究会の古江孝治理事に「当時港近くにほかに産婦人科はなくドイツ語を話せる医師は市内でもまれだった。私は小学2年で父がドイツ語で電話していたのを覚えている」と説明した。

 「昔かたぎの性格で、人として当たり前に診察に当たったのだと思う」と竹内さん。後に「敦賀はドイツ語で病気を相談できる医師のいる、素晴らしくレベルの高い街だった」と難民が話していたことを知り「父が誇らしかった」という。

 これまでの研究会の聞き取りで、市民の証言は32項目にまとめられ資料館「人道の港敦賀ムゼウム」(金ケ崎町)にパネル展示されている。産婦人科医のエピソードは未収録で「情報はあったものの確認ができずにいた。75年がたち少なくはなっているが、今になって新たに分かることもある」と古江さん。“33番目の証言”として、近く会誌などで発表する。

 ◆優しい人

 千畝氏をめぐっては映画も全国公開され、ムゼウムの本年度来館者は12月末で2万4026人と、過去最高だった14年度1万8931人を既に上回っている。

 千畝氏の出身地、岐阜県八百津町は5月末に、ビザの写真など資料を増やし世界記憶遺産に申請する計画だ。敦賀市の資料を合わせた共同申請については「国内候補となる際の前提が単独申請で、時間的にも難しいのではないか」(町タウンプロモーション室)との立場。だが市も新年度、「『優しい人がいた街』とアピールしてきたい」(渕上隆信市長)と、情報発信の好機と意気込む。

 昨年10月には難民の顔写真が収められた貴重なアルバムが寄贈されており、新年度にレプリカを作成し一般公開。さらに写真の難民の家族を市に招き、時代と場所を超えた絆を強める計画だ。

 また、節目の年に研究面の進展も期待される。千畝氏は6千人の命を救ったとされるが実際に敦賀港に何人くらい降り立ったか、実ははっきりしない。古江さんは「船の収容人員や便数から見て6千人には届かない可能性がある」とし、調査を進めることにしている。

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