そうした雑草とよばれている草の有用性を教わると、いくら草があってもかえって足りないくらいになってくるのです。ですから、自然栽培ではわざわざ草の種を蒔いたりもするのだそうです。それは見える世界だけではなく、見えない世界をも含めて丸ごとの世界として捉えようとする捉え方でもあるようです。雑草や畑に集まる虫たち生き物を「不用なもの」あるいは「害となるもの」とみなして排除したり、敵視したりしないことが何よりも心安らぐことなのです。

 土をあまり耕さなければ、土の中における目には見えない多くの菌や微生物、小動物、虫をはじめとする様々な生き物が住むようになったり、やってきたりして、生物の多様化が進み、その多様化した生物たちの共存を目指すものでもあるというのです。その共存が相乗効果となって、さらに育つ野菜にとってはより良い環境となっていくのだという。こうした考え方はとても驚きであり、感動でもあるのです。

 ずっと以前に奈良の天河神社の拝殿で、気功師の津村喬氏の指導の下で行われた気功講座の内の一つの体験です。それぞれの人がアエイオウだったと思うのですが、それらの音を響かせているとそれぞれの音が頭上でえもいえぬ心地よい響きのサークルとなって私たちの体に響いてきたという体験をさせていただいたことがあります。またドイツ在住の方による「音に関する講座」では、みんながサークルになってそれぞれの音を出し合うとき、そのサークルの中に入ると、それぞれの音が互いに響き合ってとても心地よい響きとなってサークルの中にいる人の体に伝わってくるのです。その響きによって心身が癒されるのです。こうした方法でご自分の血液の病気も治されたようです。その方は今でもお元気で年に一回は帰国され、各地で音に関する講座だけではなく、様々な講座を開かれているのです。

 また自坊でのことです。お参りの人たちの唱和する念仏がある瞬間に高まって一体となって響いてきたのです。そうした響きに包まれてのなかで唱えさせていただく念仏の浄福感を一度体験させていただいたことがあるのです。

 それぞれの人が発する音がありのままの存在からの音として発せられ、響き合うとき、その響き合う音は人の計らいを超えた力となってそこにいる人の心身に働きかけ、その命までもがより活性化されていくというその在りようは、ほかのいろいろな創造を伴う世界に従事することに於いても体験できることではないかと思うのです。

 深い慈しみの思いで受け止られた様々なありのままの命は人知を超えた力となって発動し、新たな力となってそれぞれの命にまで働きかけるということは、野菜作りにおける農業においても、子どもの教育においても、人の生きざまなどにおいても、共通していえることであるなあとしみじみと思われてくるのです。

 ソクラテスが生まれたとき「一番いいのは何もしないこと」、つまり自己教育によって子どもがすくすくと育つような環境を用意すればよい、というギリシャの産婆術での有名な話として書かれていたことがふと思いだされてきたのです。(社会の生命化と教育―高橋巌を講演録1)

 一般に行われている化学肥料や農薬を使用する農業は「慣行農法」と言われているそうです。そうした農法を続けていると当座は目に見えての立派な野菜や沢山の収穫はあっても、そこで採れる野菜はいつしか人間の体を蝕み、土地は痩せ土と化し、野菜も育たず生き物も住めない土地になっていってしまうのだそうです。それは「死の世界」を志向する方向性と「豊穣の世界」を志向する方向性の違いともなってくるのだというのです。

 かつてお釈迦さまは言われたそうです。「人間として生まれてきたということは、まだ人間として完全な存在ではないからである。完全な存在であればもう生まれてくる必要がないのだ」と。

 今日マスコミ等を通して私たちを取り巻く様々な社会的できごとが伝えられてきていますが、重く、暗く、震撼とさせられることがあまりに多すぎるように思われます。そして、身近な所においても自分にとって都合の悪いことは出来るだけ切り捨てようとしたり、排除したりすることも目の当たりにするようになりました。

■二つの世界

 私たちの内面への世界を『シュタイナー生命の教育』(高橋巌著 角川選書)を参照させていただいてご紹介させていただきます。

 私たちには、「物質的な世界」と「霊的な世界」の二つがあって、そのそれぞれに通じる道があるのだけれど、この二つの世界の間に橋を架けることが私たち自身に与えられた課題だというのです。

 「物質界」と「霊界」との間に通路を設けるのだというのです。

 私たち人間は、眼に見える「肉体」があって、生命を支えている「エーテル体(生命体)」があって、好きだとか嫌いだとかいう感情が働く「アストラル体(感情体)」があって、自分で判断したり、自分を統率したりする「自我」という構成要素で構成されているとドイツの思想家、R・シュタイナーは言っています。そして、さらに自我によってアストラル体が変化した高次の「霊我」の存在と続いていくのです。

 「霊我」と「自我」の違いは、「自我」とは依然としての自分であろうし、「霊我」は非我であろうとし、無我であろうとする存在の在りようだというのです。無我になってどうするのかというと、他と一体化するのだというのです。

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