福井藩忍者の出陣時の装備(推測)

幕末の福井城下を描いた絵図には「忍組」と書かれた区画があり、忍者屋敷があったことを示している=松平文庫(福井県立図書館保管)の「御城下之図」から作成

 普段は忍術の稽古に励みつつ、藩の倉庫に収められた武器の管理や、武芸の道場の門番を務めていたらしい。忍術の流派は源義経が祖とされる「義経流」。屋敷の隣には「半弓」と呼ばれる持ち運びやすい短い弓の稽古場があり、手裏剣ではなく弓の上達に努めていたようだ。

 忍者のイメージと結びつく仕事が、藩の内外で情報収集する「忍び御用」、すなわちスパイ活動だ。とはいえ幕末の史料に残っている限りでは、京都で張り紙の内容を書き写したり、他藩に流された藩主のお墓を絵に描いたりといった内容。義経流忍術の伝書によると商人や山伏に変装するなどして怪しまれないようにしていたようだが、屋根裏で会話を盗み聞くといった仕事をしたとの記述はないという。

 ■「文才ある者」必要に

 幕末は政局の激動期で「情報が藩の命運を左右した」と長野さん。藩主松平春嶽は黒船来航の2カ月前、忍者2人を江戸に送って情報を集めさせたが、1年後の黒船再来時には「文才ある」上級藩士の家来を向かわせた。さらに、幕府直轄の学校に通う藩士の息子をスパイ役に命じた。

 長野さんは「扱われる情報が高度化し、情報収集のプロであるはずの忍者が対応できなくなっていた」と考える。そして明治時代に入る2年前に、福井藩が雇う忍者はいなくなった。

 三重大国際忍者研究センター副センター長の山田雄司教授は、県立図書館の調査で明らかになってきた福井藩の忍者の姿は「江戸期の典型的な形」としつつ「忍者研究は戦国から江戸初期が中心で、あまり分かっていなかった幕末の忍者像を示した点で意義がある」と話している。

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