マリナーズでプレーすることが決まり、笑顔の青木宣親(右)と通訳の稲治昂佑さん=2015年12月、シアトル

 春は出会いの季節だ。7年ぶりにプロ野球ヤクルトに復帰した青木宣親にとっても、新しいチームメートとの出会いや懐かしい再会がたくさんあっただろう。

 筆者も米国駐在時に大リーグ取材で機会があり、うれしい再会だった。

 ただし、春は別れの季節でもある。

 2012年にポスティングシステムで米大リーグのブルワーズに移籍。6年間のメジャー通算は774安打、打率2割8分5厘、33本塁打、219打点、98盗塁をマークした。

 昨季、日米通算2000安打も達成した。

 目まぐるしく環境が変わり、異文化への適応も必要な中で、その活躍を支えたのは妻の佐知さんと二人の子どもたち、そして個人トレーナーの原田雅章さんら通称「チーム青木」だ。

 青木は「誰が欠けてもうまく回らなかったと思う。奥さん、子どもたち、トレーナー、通訳、マネジメントの方々もそう。とにかくみんなが一生懸命やってくれた。一人では米国でできなかったのは間違いない」と感謝を込めて米国での生活を振り返った。

 だが、日本球界復帰を決めたことで、6年間苦楽をともにした「チーム青木」の一員、稲治昂佑(いなじ・こうすけ)通訳とは違う道を歩むことになった。

 英語が話せなかった青木にとっては「最初は米国の常識も分からなかったし、練習内容も戸惑った。ジョークかどうかも分からなかったから、いつもコウスケにすぐに聞いていた」という頼りになる存在だった。

 6年間でブルワーズ、ロイヤルズ、ジャイアンツ、マリナーズ、アストロズ、ブルージェイズ、メッツと7球団を渡り歩いた。

 どこに行っても青木は監督やコーチ、チームメート、スタッフ、地元メディアから愛された。稲治さんは「それはもちろん青木さんの明るく、親しみやすい性格が大きい。僕がいなくても大丈夫だったとは思います。でも、通訳としては新しいチームに受け入れられたときに、自分の仕事ができたかなという思いはありました」と振り返る。

 稲治さんは「一緒に働かせてもらえて、本当に楽しくて幸せな6年間」と表現した。「(14年にロイヤルズの一員として)プレーオフでシャンパンファイトできたのが一番の思い出です」と懐かしんだ。

 青木も「思い出はいろいろあるけど(ロイヤルズで)ワールドシリーズに出たのが一番の思い出。いまだにファンの熱気が忘れられない」。

 ヤクルト復帰を決めた際、5歳下の稲治さんに電話を入れ「今までありがとう。これで縁が切れたわけじゃないからな。何かあったらいつでも連絡してきてな」と伝えたという。

 今春から、稲治さんは日本でゴルフ場の管理や整備を行う会社に勤めることになった。

 青木は米国育ちの稲治さんに対して「日本の会社だから、多少違う感覚になることはあるだろうね。俺が米国に行ったときと同じような状況かもしれないな、と思うんだ。異文化というかね」と親心にも近い心情を明かす。

 「今まで俺とか、ほかの日本の人たちと関わった中で感じたことを次に生かしていけばいいんじゃないか」とアドバイスしたそうだ。

 濃密で充実していた6年間だった。青木はヤクルトの入団会見で「自分を変えてくれた。言葉もベースボールも米国の常識も分からず、すべてが試練。その中でもいつも前向きに、楽しさを忘れずにやってきた。相当自信になった」と胸を張った。

 稲治さんは「青木さんは自分の調子や状態が悪いときも表に出さなかった。プライベートでも常に前向きで、暗くならない。常に『どうやってこの壁を乗り越えようか』と探っていた。それを見習いたい」と尊敬のまなざしを向ける。

 打撃不振やマイナー落ち、頭部への死球などさまざま困難に負けなかった青木の姿が脳裏に焼き付いている。

 「これまでと仕事の分野は違うけど、一緒に経験させてもらったことを生かしていきたい」と目を輝かせた。

 新しい門出を迎えた二人にとって、大リーグでの経験が新天地での糧になるはずだ。

小泉 智(こいずみ・さとる)プロフィル

2007年共同通信入社。福岡運動部、大阪運動部を経て、12年からニューヨーク支局で大リーグをカバー。16年1月に本社運動部に異動し、プロ野球のDeNA、18年からヤクルトを担当。東京都出身。

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