いっぷう変わった対談だ。スリランカ上座仏教の長老とドキュメンタリー映画監督という組み合わせ。重なるのは「観察」というキーワードのみ。

 長老は生の苦しみから解放されるために自分の感覚や認識を一つ一つ見つめる「観察瞑想」の実践を説く。監督は台本やナレーション、BGMを排した「観察映画」を提唱してきた。

 観察映画は一つのストーリーを押し付けないため、観客は各自でストーリーを読み取る。その多面性が映画に膨らみを持たせる。

 長老によれば、主観に基づく思い込みである一つのストーリーが不安や衝突を生み、苦しみのもとになる。ストーリーのパターンから逃れるためには一つのストーリーに執着せずに絶えず更新すること。同時に普遍的なストーリー、すなわち仏教の教えを知ること。観察瞑想はそのためになされるプログラムだという。

 「仏教は精密科学」という長老は、時に脳科学の知見を援用し、観察瞑想による人格向上のプロセスを論理的に語る。強調されるのは、まずはその「実用性」だ。実際にプログラムを体験した監督は「イライラしなくなった」と報告する。

 長老の外見がガンジーのように聖者っぽいので高尚な説法を予想していたら、達者な日本語で靖国参拝や安保法制についてもポンポン発言する。その態度に意表を突かれた。

 だが読み手のそうした思い込みも、実は高僧に対して勝手につくり上げた一つのストーリーにすぎない。そのことに読んでいる途中、気付かされた。

(サンガ 2000円+税)=片岡義博

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