これまでは車があればつい車に頼ってしまってなかなか歩かない生活でした。が、車を使えないこの大雪、車に乗らないで、歩ける範囲での買い物や用事は、リュックを背負ってできる限り歩くことにしました。戦後の母たちの買い出しの姿が偲ばれます。

 雪でうずたかく埋まっていて全く歩けない歩道。道幅が狭くなっていてアイスバーン化した車道を傘をストック替わりに危険と背中合わせを感じながらの外出でもありました。危険のなるべく少ない裏道を選んで歩いていると、雪かきにいそしむ、かつての保育園の保護者の方や知り合いの方とおもいがけない出会いがありました。互いにその労をねぎらい合いながら久しぶりの出会いを喜び合うこともできました。

 あまりにも早く進む世の流れを反映してか、とかく自分本位な在りようが優先され、ぎすぎすした人間関係になりがちな日常生活において、今回のこの非常なる、時間も止まらざるを得ない雪状況のなかで、相手を深く思いはからっての心からの温かい言葉がどれだけたくさん交わされたことでしょう。こうした時も止まらざるを得ない、時間的ゆとりのなかにおかれたからこそ交わされた、かつてそうした時代には豊かにあった、互いに手を差し伸べ合い、ねぎらい合う温かい言葉がけのなかに、こうした人間性が今もなお変わらず福井の人の心の底には健在していることをまざまざと感じるおもいでした。ですから、運動を兼ねてのこの程度の外出だということもあるのですが、こうして歩く生活も悪くないなあと、歩いての買い物に対して積極的な思いはあっても少しも苦ではないのです。

 しかし、毎日、毎日、雪の中から車を掘り出しては、勤めに出なければならない方々のことを思うと雪を楽しんでばかりはいられないという思いも一方にはあるのです。五六豪雪以来の雪下ろしでしたでしょうか。気がかりとなった車庫の雪下ろしも、中学にもなればいろいろと御託を並べながらも、孫も男の子です。‘ばあちゃんは しなくていいよ’と言ってくれ、頼りになりました。

 日頃はいくら言ってもまるで、灯油も天から配管されてでもいるかのような錯覚ぶり。しかし、灯油が手に入るという情報が入ると、なんだかんだと言いながらも、近くのガソリンスタンド迄、子どもの頃に使ったそりを出してきて、そりに乗るだけのポリタンクを乗せて、買いに行ってくれました。

 孫たちの日常生活においては、これまでこうした経験は殆どなく、まるで、あることが当たり前の生活のなかで、ある意味これくらいの程度での物が不足するという不安や心配(本人たちが実際どこまで不安に感じたり、心配したりしているのかは疑問ではあるのですが)はとてもいい薬でもあったように思われます。

◆子どもの教育のその目的について

「人間の魂は、現在の意識の発達段階においては、周囲の環境からの刺激を受けずに、それ自身だけで成長をとげることがまだできずにいる。

暗闇の物音のしないところに閉じ込められて生きている限り、どんなに優れた素質もその可能性を実現することができない。教育は、感覚体験を通して知性を発達させ、地上の現実との関係をできるだけ深めてゆくことでこの自己実現が果たせるように、幼い魂を導こうと努める」

と、『霊界の境域』(ルドルフシュタイナー著 西川隆範訳 書肆 風の薔薇)の序文の、この短い文章のなかで高橋巌氏は、実に端的に書かれているのです。

そしてさらに

しかし逆に、もし人間の魂がいつまでもこの世の現実だけに向かって開かれていれば、物質的感覚的な世界に留まり続けることになり、超感覚的世界に参入することは出来ない。修行によって成人の魂が人生の謎を解くために存在の根底にまで認識の道を歩もうとしても、高い教育を受けた人であればある程、「霊界を前にした恐怖」を思考によって覆い隠そうと無意識的に望んでしまい、その結果、霊界の非在を証明しえたと信じ、それによってその歩みを自分から妨げてしまうのが常である。・・・・・・  このような現代の状況をふまえて、透徹した理性の力を失うことなく、一歩一歩認識の道を霊界へ向かって歩む可能性とそうすることの必然性とを明らかにしてくれる」と、人間が生きる上において、地上の現実との関係性と地上を超えた超感覚的世界との関係性の両世界の必要性を述べられているのです。

 

<桃太郎って だーあれ6>

―再び中沢新一著『精霊の王』に戻って―

 

 再び中沢新一著『精霊の王』に戻ってみていきたいと思います。『精霊の王』は内容的にはなかなか難解なところも多いので捉え違いなどをしていることも多いことかと思いますがもしそうであればお許しいただきたいと思います。

 「精霊の王」を拝読させていただいたとき、これまでの「カタリの世界」の導きによって得られた一連の道筋、「桃太郎→天神(てんしん)→ちいさ子物語り→少彦名神」に加えて、次のような道筋が見えてきたのです。その道筋は一般的見方によれば‘こじつけ’と受け取られがちかもしれません。

 しかし、自然界や、宇宙的世界に向き合うとき、古代の人には当たり前のこととして備わっていて、現代人においては、まどろんではいても、もう全く機能しなくなってしまっているといっても過言ではない超感覚的眼差しで見通したとき、そこには現実を超えて連綿とつながる一筋のつながりが見えてくるのだろうと思います。

 蹴鞠の名人である藤原成道卿のような信仰心の厚い芸能の天才の前には鞠庭に植えられた懸木をたどって樹木の精である「蹴鞠の精たち」までもが現れたと伝えられているという。

 技をつくすだけでは、並みの鞠足を超えるものとなることはできない。もろもろの道を極めたる者には、それぞれの道の「守宮神」が憑いていなければならないが、その神を通して、鞠足はリズムがわきたち、流動力みなぎる深い闇の空間に、自分をつなげていることができなければならないという。

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