吉田松陰の兄・杉梅太郎宛てに書かれた梅田雲浜の直筆書簡=山口県萩市の萩博物館

 元小浜藩士で幕末の尊王攘夷の志士、梅田雲浜(1815~59年)が長州藩士に送った直筆書簡が、山口県萩市の同市立萩博物館に保管されていることが分かった。文面からは松下村塾で知られる吉田松陰らとの親密な関係がうかがえ、雲浜研究者は「松陰が雲浜を好ましく思っていなかったという説もあるが、実際は信頼し合い、濃密につながっていたことがあらためて証明される」としている。

 安政の大獄で獄死した雲浜の書簡の多くは廃棄されたため乏しく、その内容が収録されているのは「梅田雲浜遺稿並伝」(1929年発行)や「梅田雲浜先生」(33年発行)のみ。萩の書簡はこれらに未収録で、萩博物館でもほとんど一般公開されておらず、雲浜研究者の間では“新たな発見”と位置付けられるという。雲浜の玄孫、梅田昌彦さん(73)=奈良市、元大阪芸術大教授=が所在を確認。筆跡から雲浜の直筆書簡に間違いないという。

 松陰の生家である杉家から1980年、萩博物館(当時萩市郷土博物館)へ史料約6千点が寄贈され、この中に雲浜の書簡が1通あった。縦18センチ・横52センチで、1856(安政3)年に書かれたとみられる。同年12月11日、梅田源二郎(雲浜)から長州藩士で松陰の実兄、杉梅太郎(民治)宛てとなっている。

 あいさつに続き、「(長州藩の京都留守居役)宍戸九郎兵衛様と打ち合わせをして昨夜、防州戸田に着いた。用事が済み次第出発し、16日には萩に着く予定です」「滞在日数については御令弟(弟の松陰)や同志の方々と相談して、宿に伝えてください」などと記されている。

 雲浜は小浜藩籍をはく奪され、幕府から危険人物とみなされ始めていた。当時の雲浜は41歳で、松陰は20代後半。松陰は謹慎中だったため、兄に宛てたとみられる。雲浜は長州藩を訪れた際、物産交易を提案する一方、松陰らに尊王攘夷思想の影響を与えたとされる。

 梅田さんは「長州藩士らが、雲浜の受け入れ準備を十分に行って迎えた様子がよく分かる」と指摘。安政の大獄で捕らえられた松陰は、雲浜との関係を厳しく問われたが、親密さを隠していたことが知られている。

 杉家の史料群は萩市では有名だが、雲浜に焦点が当たることは少ないという。萩博物館特別学芸員で至誠館大特任教授の一坂太郎さん(51)=近代史=は「雲浜は政治運動のリーダーとして最重要人物であり、長州藩としては京都との物産交易を進める貴重なパイプ役だった。歴史的には過小評価されているが、雲浜はもっと検証されるべきだ」と話す。

 全国歴史研究会本部正会員で前小浜市長の村上利夫さん(85)=同市=は「数少ない雲浜の史料が、公立の博物館で保管されていたのは大変ありがたい」とした上で「雲浜の提言がなければ長州藩の財政再建や、その後の薩長同盟も実現しなかったかもしれない。この書簡が雲浜の功績を見直す契機になってほしい」と話している。

関連記事