【論説】美浜町興道寺の「興道寺廃寺跡」が国史跡指定の答申を受けた。7世紀後半に建立、大規模な再建を経て10世紀に廃絶となった変遷が明らかになった希少な遺跡。豪族耳別(みみのわけ)氏が建立したとされる。1300年の時を経た今も状態よく遺跡が残り、仏教を広める当時の国家政策のあり方を端的に物語る。

 廃寺のある場所は北に古代北陸道と若狭湾、東に耳川を望む水陸交通の要衝で、越前国と接する若狭東縁の要地でもある。こうした状況が豪族を生み、寺院建立の背景となった。

 寺院建立前の古墳時代後期(6〜7世紀)の耳川流域には集落遺跡や墳墓、生産や祭祀(さいし)に伴う遺跡が数多くあり、流域を治めた豪族の存在がうかがえる。集落遺跡からは土器を用いて塩を作っていたことを示す製塩土器が出土。生産遺跡では石敷きの製塩炉などが出ている。古墳からは須恵器や鍛冶関連遺物、玉類、鉄製武具、鉄製工具など豊富な副葬品が発見されている。

 この時代の豪族は文献などがないため、後に寺院を建立したとされる耳別氏の祖先と断定できない。しかし、古事記に記述される耳別氏が突如として出ることは考えにくく、関連性が指摘される。国史跡となることで研究が一層進展し、耳別氏の謎解明につながることを期待したい。

 興道寺廃寺が建立された国内状況も押さえておきたい。日本に仏教が伝えられたのは古墳時代後期で、その後の7世紀末に全国で545の寺が造営された。興道寺廃寺もその一つと考えられている。

 寺の建立が進んだ背景は、国が仏教を通して各地の豪族を支配下に置くためとされる。豪族も仏教を取り入れて中央政権とパイプを持った。民衆に対しても寺建立は技術や財力、権力を見せつける絶好の機会になった。

 耳川流域では地元住民の間で地面を掘れば瓦が出土するといわれていた。2002年度から14年度まで16次にわたる発掘調査で寺院や伽藍(がらん)範囲が明らかになった。地道な継続が美浜町として初の国指定につながる。10年以上前から、全国の研究家らを招いてフォーラムなどを開催し、遺跡の歴史的な価値づけをしてきた取り組みにも注目したい。

 現在、畑となっている遺跡を見ると一段高い「基壇」と呼ばれる建物基礎が一目で分かる。今も残っていることに驚かされる。三方郡で仏教普及の中心的な役割を果たした遺跡。近くには町歴史文化館があり、出土した多くの瓦や塑像螺髪(らほつ)などが公開されている。国史跡になることで住民に身近な遺跡が全国に発信される。地元の歴史に誇りを持ち、価値を見つめ直すきっかけにしたい。

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