【越山若水】ノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロさんの小説「日の名残り」。終章は年老いた執事が旅先で仕事の苦悩を打ち明ける。それを聞いた地元の男がこう話す▼「あんたの態度は間違っとる。後ろばかり向いているから、気が滅入(めい)るんだ。昔ほどうまく仕事ができない? みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだ」▼男は海を見詰めて語る。「わしは引退してから楽しくて仕方がない。人生、楽しまなくちゃ。夕方が一日で一番いい時間なんだ。脚を伸ばしてのんびりするのさ」▼空の色が赤く染まるころ、桟橋に大勢の人が集まり明かりがともるのを待っていた。点灯の瞬間、大きな歓声が上がり、家族連れや若者から老人までみんな笑い合い、夕暮れの時間帯を満喫していた▼老執事は男の忠告の正しさを実感した。夕方は一日で最もワクワクする時間。頑張った一日の名残の時間を存分に楽しめばいい―。旅を終えた彼は心新たに執務に復帰する▼どうやら真面目タイプの人ほど楽しむことが苦手らしい。執事の道一筋に生きた主人公しかり、日々仕事に追われる日本のサラリーマン諸氏もしかり▼そんな人にこそ息抜きが欲しい。今月は折しも「過労死等防止啓発月間」。長時間労働の削減やメンタルヘルス対策を呼び掛けている。さあ仕事を切り上げ、くつろぎのひとときを。夕方は一番いい時間である。

関連記事
あわせて読みたい