奇妙な本である。描かれているエピソードからすると、語り手は書き手本人である。語られるエピソードに合致するスナップ写真もたくさん載っている。しかし書き手は、語り手を「彼」と称するのだ。

「彼」に、娘が生まれる。娘は「彼女」と称される。「彼女」は育ち、言葉を覚え、物事を理解するようになる。父親と2人で、他愛のないおしゃべりを交わす。

 娘の祖父の死が描かれる。父娘の会話と、死にまつわる光景の描写が、かわりばんこに訪れる。注意すべきなのは、その亡くなった男のことも、文中では「彼」と称される点である。もっと言うと、この本に出てくる男たちはみんな「彼」と称される。昔の自分や今の自分さえも、書き手にとっては「僕」ではない。破水した妻に寄り添いタクシーに乗り込む自分(とおぼしき誰か)、仕事で使うパソコンを自転車で運びながら缶コーヒーを買う自分(とおぼしき誰か)。書き手が我が事のように描写する男たち全員が、区別なく「彼」とだけ称され、同じ時空間を行き交う。「彼と彼がここですれ違っていることを彼と彼は知らない」的な事態になる。

 ……ぞくぞくする。

 読み進むにつれ、「彼」はどんどん増殖していく。南米の空を横切る「オオギワシ」なる鳥のことさえ書き手は「彼」と呼ぶ。北極に住むシマフクロウは「彼女」だ。この世界を見つめる眼差しが、「彼」と「彼女」の数だけ増えていく。

だんだん、語り手が誰で、誰と誰が主人公で、みたいなことはどうでもよくなってくる。

 たくさんの「彼」や「彼女」によって世界が切り取られ、「彼」や「彼女」の記憶となって噴出し、それらについて父と娘が、のんびりと禅問答する。とりとめとか脈絡とか、そういったものとは無縁の展開でありながら、けれど何だろう、全編通して、何らかの旋律を感じるのだ。

「命」というものの始まりと終わり、そしてその間に横たわる、何でもない日常についての旋律。

「最終話」とされる最後の章で、ある人物が「私」という一人称で語りだす。そして、ある人生の幕切れが語られる。その後に残ったもの。それが、世界だ。

(文藝春秋 2400円+税)=小川志津子

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