桐生祥秀選手(中央)と握手する、男子100メートル決勝でスターターを務めた福岡渉さん(左)ら=福井県営陸上競技場

 「風もいいし、ついに出るかな」「いや、今日のコンディションだと厳しいそうだ」。 陸上男子100メートルが行われる日の朝、各報道機関の担当記者は挨拶代わりにこんな会話を交わす。

 出るか、出ないかの興味の先は、もちろん「日本人初となる9秒台」。個人的には、陸上を担当して間もない記者ほど「今日は出るんじゃないか」と思う傾向が強い気がする。自分自身もそうだった。

 今年に入ってから陸上を担当し、初めて取材した100メートルは6月の日本選手権。桐生祥秀(東洋大)山県亮太(セイコーホールディングス)ケンブリッジ飛鳥(ナイキ)、そして新星の多田修平(関学大)を加えた「4強」がぶつかるとあって、各社が多くの記者を派遣。プレスルームも独特な雰囲気となり、気がつけば僕は隣にいる先輩記者に「ついに(9秒台)出ますね」とつぶやいていた。

 その日本選手権は結局、サニブラウン・ハキーム(東京陸協)が10秒05の好タイムで初優勝。「4強」に割って入った18歳の衝撃は大きく、いつ9秒台が出てもおかしくない群雄割拠の争いは激しさを増した。

 だが、その瞬間はなかなか訪れない。8月の世界選手権ロンドン大会は出場した3選手が全員準決勝まで進む健闘を見せたが、9秒台には届かず終わった。もうシーズンは終盤。今季の達成は難しいかと思われた9月、ついに「10秒の壁」が崩れた。

 9月9日の日本学生対校選手権100メートル決勝。正直言って、この日の僕は「厳しい」派だった。

 出場していた多田は連戦の疲れがあり、桐生は左脚に不安があった。さらに外的要素も。風が強かったのだ。

 予選と準決勝が行われた8日は軒並み追い風2・0メートル超えの参考記録で、9日も男子の直前に行われた女子100メートル決勝も追い風2・3メートル。たとえ9秒台が出ても、公認されない心配があった。

 ただ、桐生が9秒98のタイムをたたき出した時、風は1・8メートルに弱まったのだ。

 歴史的瞬間を演出した一人がスタートの号砲を鳴らした福井陸上競技協会の福岡渉スターター主任。「(強い)追い風だけど諦めたら駄目だ」と、スターター12年目の福岡さんは、レースが始まる前に50メートル地点にある吹き流しをずっと観察していた。そして風のリズムを見つけた。

 強い風、短めにやむ、強い風、長めにやむ。「この繰り返しだった」という。最後の長めに風がやむ間にレースができるよう逆算して「オン・ユア・マークス」と発声。「最高のスタートを切れるように、スターターとして風を読み切って号砲を鳴らした」と、見事に大役を果たした。

 人の手ではどうしようもない風も味方につけ、押し開かれた重い扉。日本陸連の伊東浩司強化委員長が現役時代に出した10秒00を更新するのには20年近くの年月を要した。

 果たして、次の9秒台、そして日本新記録はいつ出るのか。その期間は短いのか、長いのか。答えは風の中にある。

岡田 康幹(おかだ・やすき)2010年共同通信入社。同年12月から福岡運動部で大相撲やプロ野球を取材し、14年12月から2年間は広島でカープ担当。17年1月に本社運動部へ戻り、一般スポーツを取材する。1985年生まれ。東京都文京区出身。

関連記事
あわせて読みたい