「利根」の軍艦旗を保管している荒谷磨治さん。「旗は棺おけの中に入れてもらう」と話す=7月、福井県坂井市

 1944年10月、日米の軍艦など約200隻が集結した「史上最大の海戦」とされるフィリピンのレイテ沖海戦。重巡洋艦「利根」の砲員として、敵戦闘機の銃弾を受けながらも生き抜いた荒谷磨治(あらたに・まはる)さん(92)=福井県坂井市=の手元には、利根の軍艦旗がある。この世を去った元乗組員たちから受け継いできたものだ。荒谷さんは「軍艦旗には戦没者の魂が入っている。戦友と呼べる人はもうおらず、軍艦旗は自分の棺おけの中に入れてもらうつもり」と話す。

 ■全軍突撃命令

 41年、15歳で海軍に入隊した。水雷艇「初雁」の乗組員を経て、43年2月に横須賀砲術学校を卒業。その後、高角砲の砲員80人のまとめ役として利根に乗り込んだ。

 米軍がレイテ島に上陸した44年10月20日、レイテ沖に向かう「全軍突撃」命令が下った。「口に出せないが、勝ち目はないと思った」と荒谷さん。艦船を守る戦闘機が圧倒的に不足していた。

 その日、砲員を集め「今度の出撃では絶対に帰れない。今夜は思う存分(酒を)飲め」と訓示した。赤紙で召集された兵隊たちの多くは顔色をなくし、泣きだし、家族の名前を叫んだ。存分に酒を飲んだ兵隊はいなかった。

 19歳で、妻子もいなかった荒谷さんは冷静だったという。「とにかく砲弾が出るよう発火装置をきちんと管理する。それしか考えていなかった」。死の恐怖、生への執着はみじんもなかった。

 ■若狭の看護師

 同月23日からのレイテ沖海戦では、敵戦闘機が60度の急降下で攻撃を仕掛けてきた。水面ぎりぎりを飛ぶ7機編成の戦闘機は魚雷を放ってきた。「高角砲を使えるのは50度まで。手も足も出なかった」。世界最大級の戦艦武蔵は、なすすべなく沈没した。

 利根も6発の爆弾を受けたという。ドラム缶二つ分ほどの大きな爆弾が、荒谷さんの約5メートル後ろに落ちた。衝撃で4人が海に吹き飛ばされた。しかし爆弾は不発。「爆発していたら、利根は真っ二つに折れ沈没していた」

 荒谷さんは機銃弾を右太ももに受け、シンガポールの野戦病院に運ばれた。空襲のときは「若狭出身」という京都なまりの看護師が、おぶって逃げてくれた。寄港した商船で帰国しようとすると、「絶対ダメ」と言って引き留められた。多くの商船は、日本に着くまでに攻撃を受け、沈没していた。

 「もし今、あの看護師に再会しても、言葉は出てこない。頭を下げることしかできない」と涙ぐんだ。

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