結城秀康の書状の前半部分。長男忠直の結婚について触れている=20日、福井市の福井信用金庫本店

徳川家康氏の家系図

 福井藩の初代藩主の結城(松平)秀康が、弟で江戸幕府2代将軍の徳川秀忠の家老宛てに送った書状を入手したと、福井市の福井信用金庫が20日発表した。秀康の長男で後の2代藩主・松平忠直の結婚について、早くから秀康と将軍秀忠が検討していたことがうかがえる内容。専門家は「福井藩にまつわる秀康―忠直時代の史料は少なく貴重。将軍秀忠の秀康に対する気遣いもうかがえるようで興味深い」としている。

 書状は東京大史料編纂(へんさん)所が1922年に作成した史料「酒井文書」に写しが収められていたが、前半と後半部分がばらばらに綴(と)じられており、さらに同文書の作成後は原本の所在も不明だったために、これまでは別々の書状と認識されていた。原本が今回発見されたことで、前後半がつながった完全な書状の内容が明らかになった。

 福井大教育学部の長谷川裕子准教授(歴史学)によると、書状が書かれたのは秀康が亡くなる前年の1606(慶長11)年。新たに確認された前半部分には「忠直の婚姻について将軍(秀忠)からの仰せがあった」と書かれている。忠直はいとこで将軍秀忠の三女勝姫と1611年に結婚。1609年の婚約を示す史料は残っているが、今回の新史料によって秀康存命の段階で、秀康と将軍秀忠との間で忠直の結婚について検討していたことが分かった。

 書状からは結婚相手が勝姫かどうかは確認できないが、表現から「将軍秀忠に極めて近い人物であると推測でき、幕府が福井藩をいかに重要視していたかが分かる」(長谷川准教授)という。

 また、秀康は1604年ごろから腕にできた腫れ物の痛みで花押(サイン)も書けない状況だったとされているが、書状には秀康直筆の花押がはっきりと残っている。長谷川准教授は「もしかしたら将軍秀忠は、秀康の病気を気遣って安心させようと忠直の縁組の話を持ち出したのかもしれない」と話している。

 秀康の死後、忠直が率いる福井藩は大阪夏の陣で真田信繁(幸村)を討ち取るなど戦功を挙げた。しかし恩賞への不満などから江戸への参勤を怠り、藩内で乱行があったとされ現在の大分市の豊後府内藩に配流される。乱行の背景には将軍の娘勝姫との確執もあったともいわれる。菊池寛の小説「忠直卿行状記」のモデルにもなった。

 書状は、福井県ゆかりの偉人にスポットを当てた地域貢献事業に取り組んでいる同信金が、6月に京都市内の古美術商から購入した。大きさは縦17・9センチ、横104センチ。

 同信金は23日から8月6日まで、福井市乾徳1丁目の未来プラザふくしんで「福井県ゆかりの人物展」を開き、書状を公開する。同展では、同信金の購入で所在が明らかになった幕末の小浜藩士、梅田雲浜の自筆の書簡も合わせて展示する。

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