「宝珠を抱く童子」京仏師・樋口孝夫

暖冬のせいでしょうか、1月なのですが暖かい日が続いておりましたが、さすが大寒に入って厳しい寒さとなりました。昼の長さに比べて、夜の長い、暗い、こうした季節は、じっくりと自分の内面に向きあうに適した季節でもあるのです。

前回は、子どもの誕生をどのような気持ちで受け入れるかについてご一緒に考えてみました。今回は生まれてきた子にたいしての基本的な関わり方について考えてみたいとおもいます。

皆さんは子育てに当たって、自分の子育ての「基本姿勢」のようなものを意識したことはありますか?

「基本姿勢? そんな四角張ったこと・・・。子育していると、そんなこといちいち考えている暇なんて・・・。とかく毎日毎日が大変で・・・」。そんな返答が聞こえてきそうですね。

「子どもに向き合うとき、子どもはまったく無能者として、何もできない存在として生まれてくるものだ。だから、周りからいろいろと働きかけ、手を掛けて、一人の人間として育て上げていかなければならないという考え方があります。それは、彫刻家が粘土を使って彫塑するとき、自分の思い通りに形作ろうとして粘土に向き合う、その向き合い方と同じことなのです。そして現代においては、多くの人にこうした子どもとのかかわり方が見られがちなのです」。これは、ずっと以前に、ある講義で聴いたことです。

そうした子どもへのかかわり方とは違ったいろいろなかかわり方があるとおもいますがその1つとして、こんな向き合い方が考えられるとおもいます。

昔、日本の各地の山野で修行する修行僧によって、1本の木の中に仏が見出され、その木から仏像が彫り出されました。そうした仏像が、今なお日本のいたるところに点在しているのです。

それらの修行僧は、1本の木を見て、あるいは単なる一片の木片のなかにも仏を見出したといわれています。そして彫られたそれらの仏像には、なにか見る人の心を深く打つものがあり、多くの人の信仰の対象として、あるいは現在においては、芸術的価値からも高い評価を受けているのです。

また、日本の古い寺社建築において、宮大工と呼ばれているその建築に当たった人たちはその建物に使う木を選ぶにおいても、自ら山に入って、木が山のどの方角に生えていて、どういう性質やくせを持った木かを見定めて、その木にあった、適材適所を見極めて使ったといわれています。ですから、それらの建物は1000年以上にもわたって今なお健在なのです。

修行僧が、1本の木のなかに仏の姿を見出したり、宮大工がその木の性質をきちんと見定めて使ったりしたように、1人の子どもの中にも、その子が持って生まれているその子の「真の姿」があるというのです。その「真の姿」を見出し、この世でその「真の姿、力、独自性」が充分に発揮されるよう支援していくという、かかわり方がもう一方に考えられるとおもいます。

子どもは木とは違います。木を彫る彫刻師のように余分な部分をすべて取除かなくっても、子どもには自らが成長、発達していく力が備わっているのです。