1948年6月28日に発生した福井地震当時 の様子。(福井新聞記事より転載)

 何が怖いかと問われれば迷わず地震と洪水害と答えます。昭和23年の「福井地震」は60年前です。現在60歳以上の方、県人口の30%が経験しましたが、記憶している年代を当時5歳以上としますと24%となり、語り部は4人に1人となります。

 いまから123年前の明治28年とその翌年は福井県は災害の年でした。「梅雨前線+台風」で4回洪水害に見舞われ、当時の被害状況は、死者379人、堤防の決壊・損傷は9220箇所に及びました。

 当時の気象事業は始まったばかりで、政府は明治20年に「気象台測候所条例」を公布し、同年8月には「内務省告示第4号」により、福井県に測候所の設置が指定されました。県議会は明治22年と27年に設置予算案を提出しましたが、いずれも見送られました。その翌年に大災害を被り、設置予算は直ちに成立して、明治30年に福井と敦賀の測候所が誕生しました。

 測候所を作れば災害が無くなる訳ではありません。気象現象と災害の因果関係を解き明かし、災害を予想するには大変な時間と労力を要します。当時、地方の測候所は県が運営していました。国営になったのは昭和14年です。

 当時の天気予報は東京の中央気象台で作り、電報で各地に発信しています。天気図は同じく東京でつくったものを郵送しますから、数日経った古い天気図を見ることになります。当時天気予報は測候所の信号塔に色とりどりの旗を数枚上げていました。例えば南の風は赤の三角旗、緑の四角旗は雪、霜の降る恐れありは左に緑、右は白の二色旗などというふうにです。新聞に天気図が掲載されたのは大正13年に、東京の国民新聞でした。ラジオでの天気予報放送は大正14年です。

 太平洋戦争が始まると気象管制になり、気象データは機密扱い、通信方法は暗号化され敗戦まで続きました。戦争中に「東南海地震」「三河地震」と大きいのが起こりましたが、アメリカを利する情報は出さない軍の方針で、国民には知らされませんでした。地震の規模や被害の模様は日本ではなく、アメリカの公文書館に詳しいものが保管されています。

 新しい事業、特にいつ起こるか判らない気象地象災害などには、被害が起こらないと予算は付かないのが現状です。小生が昭和29年に測候所に入ったのは防災要員としてでした。その前年に梅雨前線により北海道を除く全国で2度にわたり被害が続出しました。死者・行方不明2137人建物被害58万戸余、耕地被害36万ha。これを受けて政府は、防災対策として全国にアメダスの前身である「無線ロボット雨量計」を展開しました。福井県は三大河川の源流付近に3カ所(九頭龍川は木無山、足羽川は緑谷山、日野川は笹ヶ峰)でいずれも分水嶺の頂上です。どの山も登山道はなく、設置のために頂上に向かう直線登山道でした。

 雨量は毎時間モールス符号で送信され、気象台と大野気象通報所で受信していました。符号組み立て部はアメリカの水位観測器を真似て作ったもので、故障が多くメンテナンスが大変でした。大雨・雷雨注意報が出ていても、電波がこない時は国鉄で今庄駅へ、自転車をレンタルして大河内まで行って、木無山に登り修理したものです。1坪半の小屋は機械や電池があるので、狭い床と機械の後ろの空間でしか仮眠できません。雷鳴は上から聞こえるのではなく、横か下から聞こえました。今考えると死なずに済んだのが語り草です。転落事故などもあり現在は麓に下ろしています。

 最近集中豪雨になる率が高くなっています。地球温暖化に原因を求める学者も居ます。「平成16年福井豪雨」は記憶に新しいところです。気象庁は降水量と災害の相対関係を重視していましたが、降水量と土壌含水状態をもとに平成19年から「土砂災害警戒情報」を出しています。

 防災は自治体やボランティア任せではなく、自らを守ることと思います。梅雨時期は本州の南海上に前線が出来て大雨を降らせますが、その南に熱帯低気圧が北上してきますと、湿った空気が上乗せされて、豪雨になる確率が高いのです。新聞やテレビの天気図でこのような気圧配置のときは、災害に備えましょう。

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