日本で天気予報が始まったのは明治16年(1883年)です。今年で127年になります。現存する最も古い天気図、明治16年3月1日を見ますと、北海道から九州までの観測所数は21個所です。それぞれ気圧と気温・天気が記入されており、これを基に等圧線を描いています。九州西に765mm(水銀気圧計)、仙台付近に769mmと解析されており、東シナ海はLOW(低)、三陸沖はHIGH(高)となっています。朝鮮半島や大陸にはデータはありません。興味深いのは作成時間が6AM.KiotoTime(※)となっています。始めはドイツ人クニッピングなどの外国人技術者の知恵を借りて予報していました。

※【京都タイム】東経135度の時間を中央標準時としたのは、明治21年1月1日で、八重山列島や宮古列島は東経120度で、時差1時間の西部標準時でした。昭和12年10月1日には中央標準時に統一されました。

 昭和20年から30年代は、全国の気象台や測候所でそれぞれが天気図を作って予報していました。当時の気象関係の通信網は有線と無線でしたが、天気図のデータは中央気象台からの無線放送を傍受して取得していました。観測所名からすべての観測結果は数字化して送信されていました。1枚の地上天気図を作るのに2時間ほど無線受信しますので、3時の地上天気図が出来上がるのは3時間後の6時になります。昭和41年にテレタイプが導入されてからは無線傍受は中止となり、プリンター用紙に印字されたデータを使いました。昭和46年に天気図は無線ファクシミリで東京から送られるようになり、手書きの時代は終わりました。現在は電話回線で鮮明な天気図が手に入ります。

 50年前は地上天気図を見て、予報官の頭の中で描いた未来の天気図で予報していました。当然のことながら予報官の経験が重要です。経験則に基づいたもので、先輩から後輩へと引き継がれていました。現在の予報現場で使われる天気図は、地上や高層天気図(850・700・500・300hPa)で、これをもとにコンピューターで計算した予報図や予報支援資料(※)です。

※予報支援資料はさまざまあり、降水確率や気温予想・降水量予想・風力予想・発雷予測などです。

 今は数値天気予報の時代です。大気現象は物理法則にしたがっていることは分かっていましたが、計算で将来を求めようとした最初の科学者はイギリスのリチャードソンです。1920年頃、6時間後の予報を1カ月かけて手計算で行いましたが、残念ながら数値計算に難点があり、非現実的な気圧変化を予測してしまい失敗に終わりました。リチャードソンはその著書の中で「6万4千人が大きなホールに集まり1人の指揮者の元で計算を行えば、実際の時間の進行と同程度の速さで予測できる」と提案しました。気象関係者には「リチャードソンの夢」として有名です。

 第二次世界大戦後、数学者のフォン・ノイマンは気象学者のチャーニーらと真空管式のコンピューターを使い数値予報の実験に成功しました。1955年、米国気象局はIBM704を導入して数値予報を実用化しました。4年後の1959年に日本の気象庁もIBM704を導入して数値予報を開始しました。

 IBM704は、日本政府が行政用に導入した初めてのコンピューターであります。このコンピューターのリース料金は、老朽化した気象庁を建て替えられるほど高かったそうです。その後5~8年毎に最新の機械に更新し、開発・改良を繰り返して現在の予報精度に到達しました。

 気象庁では目的に応じてさまざまな方法で数値予報を行っています。新聞やテレビで見る地上予想天気図は、地球全体を20kmの格子に区切り、上空は36層に分けて、それぞれの点での物理量を計算しています。例えば、赤道では1800に仕切られ、36層ですから64,800ポイントになります。地球全体ですから膨大な量です。さらに1地点で数百回の計算を繰り返しますから、その計算量は天文学的です。計算時間を延ばせば予報期間は長くなります。1カ月予報のために35日先まで行っています。大容量で高速の計算機があってこそ実現可能です。

 計算点に該当する実測値はほとんどありません。その周辺から想定して初めの値(初期値)とします。これを間違えると結果は大きくずれてしまいます。想定する値を複数つくり、それぞれ計算して確率の高い値を求めています。アンサンブル予報と名づけています。

 予報作業は大型コンピューターを使うことにより50年前に比べて大きく進歩しました。「リチャードソンの夢」が実現して日々の暮らしを豊かにしています。