5月12日、気象庁は「ラニーニャ(※1)現象」は終息しました。エルニーニョ監視海域(※2)の海面水温は、夏から秋にかけて基準値に近い値かやや高めに推移すると発表しました。

 もともとは、南米ペルー北部の漁民が、毎年クリスマス頃に現れる小規模な暖流のことをエルニーニョ(※1)と呼んでいました。暖流が入ると寒流系の魚は取れないので翌年3月まで休漁します。1950年代に入って海洋観測が整備されたため、ペルー沖だけの局地的な現象ではなく、広域にわたることが分かりました。さらに海面水温の変化に留まらず大気の変化に大きく関わっていることも分かってきました。

 エルニーニョ現象の時の東日本の天気の特徴は、気温は「平年並みか低く」、降水量は「多く」、日照時間は「平年並みか多い」となっています。これらの資料は長期予報の参考にしています。北陸地方の3ヶ月予報(6月~8月)は、気温は平年並みか高く、降水量は平年並みとなっています。梅雨の時期が近づいてきましたが、今年の沖縄地方の入梅は平年より10日遅く、奄美地方は8日遅くなっています。

※1ラニーニャ  スペイン語で「男の子」で定冠詞も名詞も大文字で書き始めることから、神の子、すなわち幼児キリストをさしています。ラニーニャは反対の現象ですから、ラニーニャ「女の子」という使いわけをしています。

※2エルニーニョ監視海域 赤道の緯度南北5度と東経60度から西経90度までの範囲、赤道から南緯10度で西経80度から西経90度の範囲、赤道から北緯15度で東経130度から東経150度の範囲。

※3エルニーニョ現象 太平洋赤道域の中央部(日付変更線付近)からペルー沿岸にかけての広い海域で海面水温が平年に比べて高くなり、その状態が1年以上続く現象です。これとは逆に、同じ海域で海面水温が平年より低い状態が続くのはラニーニャ現象と呼ばれています。

 エルニーニョ現象は、太平洋高気圧の勢力が平年より弱まった時に北東貿易風も弱まり、起こると言われています。太平洋高気圧の勢力を左右するのは、赤道付近の温かい海面からの強い上昇気流です。この上昇気流は南北に分かれ緯度30度付近で下降気流となって高気圧を作っています。この高気圧から吹き出す風が、北半球では北東貿易風です。海面のみの現象ではなく大気の変動とも密接に関連しており、遠く離れた日本の天気にも影響しています。


 さて、6月1日は気象記念日です。1875年(明治8年)6月1日に東京気象台が設立されたのを記念して、1942年(昭和17年)に制定されました。当時を振り返ると、政府は明治4年に東京府下の三角測量を始めました。測量師長はイギリス人のマクビーン(明治元年に灯台建設のため来日)、測量助師はイギリス人ジョイネル(明治3年に京浜間鉄道布設のため来日)で、このジョイネルが気象観測の必要性を建議し、政府は明治6年に気象台を設けることを決めました。

 イギリスでの気象測器の購入や、イタリア製の地震計調達のために、開設まで2年かかりました。開設時の東京気象台は1日3回の地上気象観測と地震観測で、職員は御雇外国人ジョイネル1人でした。ジョイネルの満期解雇の明治10年までに、5人の日本人技術者に気象や地震の指導をしました。天気図を作り天気予報を始めたのは8年後の明治16年です。

 福井気象台は明治30年に県営測候所として業務を開始、昭和14年に国営に移管され、現在に至っています。

 太平洋戦争の幕開けとなった真珠湾攻撃には、海洋気象台が漁業や海運の利用に供する目的で調査した「北太平洋の天気図」や「北太平洋の気象」が欠くべからざる参考資料になりました。昭和16年12月7日の中央気象台特別予報作業室は、遮蔽幕にとざされて、予報官と海軍気象担当将校がハワイ沖の海上予報の協議がなされ、8日午前1時に気象台の責任者は特別に作られた天気図を持って軍令部に説明に行きました。その日の午前8時を期して、陸海軍大臣から中央気象台長に命令で気象管制(気象情報の極秘扱い)が実施されたのです。

 気象記念日が制定された昭和17年は、太平洋戦争が始まった翌年です。昭和20年の終戦の日まで天気予報や注警報は、主として戦争のために奉仕させられ、一般市民には縁のないものとなっていました。その間に記念日が制定されたのは、気象情報は公表できず、国民から隔たれた気象台は、日本国のために命運をかけた戦争に貢献していると、アピールしたかったのではないかと、筆者は推定しています。