あの暑かった夏も終わり、ここちよい秋風に誘われてお子様と一緒に秋の野山を散策したいそんな思いに駆られるよい季節になってきましたね。

 先日、何年振りかで福井の郷土の石“笏谷石”に熱いおもいを寄せる方々によって新たに「笏谷石の会」が立ち上げられました。平成13年、福井市で「笏谷石文化」としての映像製作に加わらせていただいたことが懐かしく思い出されてきます。今回私にも「笏谷石文化の伝承」という面での活動メンバーの一人としてお声をかけていただき一緒に活動させていただくことになりました。親子参加の楽しいイベントも企画していきたいとのこと、皆さんとご一緒できたらと今から楽しみにしております。

 さて、人の命をめぐる痛ましい事件が日常茶飯事に引き起こされている今日、実の親によって幼い命が無残な仕方で奪われるというむごい事件もあとを絶ちません。あとになって、こうした事件が引き起こされる前にどうして食い止めることができなかったのだろうというコメントがなされるのはいつものことのようです。

 それまでに近所の人たちは気づかなかったの?児童相談所は?・・・とその矛先がいろいろなところに向けられますが、こうした事件は結局はその矛先はどこにも向けようがないようです。なぜなら「親権」や「人権」という私たちを守る上でなくてはならない大切な「権利」が、こうした事件においては、うかつに立ち入って未然に防ぐこともできない“砦”となってしまってもいるようです。

 先日、児童民生委員という仕事を長らくされてきたという近所の方とこうした事件についてお話しする機会がありました。地域に張られているネットの詳細までは知らなかったのですが、地域には地域の子どもを守るためにいろいろなネットが張られてあり、児童民生委員という仕事も一つだということでした。

 しかし、せっかくあっても、‘躾という名のもとでやった’と言われてしまえば、こうした事件には、口出しも、まして立ち入ることなどとうていできないのが現状なのだと言っておられました。「幸いなことには担当地区には、そうした心配はこれまでも、今のところも全くないですよ」とも付け加えられました。

 こうしたマスコミに取り上げられる事件は、氷山の一角であって、人の目に付かないその水面下では、無知、未熟な親(大人)による、たとえ虐待までとはみなされなくても様々な暴言、暴力によって深くダメージを受けている子どもも少なくないのです。

 他者が、躾か、そうでないかのどこに線を引くかは大変難しいことだともいわれます。たとえ体に傷はなくとも、子どもの心の奥深くに受けている傷はなかなか人の目にはつかないものです。そして問題として取り上げられることもあまりないのです。もし早く気づいたとしてもそこに救いの手を差し伸べることはそう容易なことではないのです。それが今の社会の盲点でもあるように思います。

 これまで見てきたように一般に子育て最盛期にある親御さんのバイオグラフィーは自己中心的でまだまだ親と認められる状態ではないようです。しかし、そうした状態で誰もが親になり、子育てをする中で自分も親として育っていっているのです。

 今親になっている人たちは、もう既に、一人か二人の少ない子どもとして大事に育てられている人が多い世代の人たちではないでしょうか。それに拍車をかけるように時代意識の大きな変化の影響も、もろに受けて育ってきているのです。そのことが、自己中心的な、幼児性、無知、感情のコントロールができない親につながってきているように思われます。

 保育士としての仕事を通してよくいろいろな場面で目に付いてこれまで気にかかってきたいくつかのことがあります。ここでそれらのことを改めて取り上げてみていきたいと思うのです。

■子どもをどう育てようとしているのでしょう。
■自由とは?何事も自分の思うようになることが自由なのでしょうか。
■愛情とは?愛情を持って子育てをするというのですがその愛情とはどんな愛情なのでしょう?

 親御さんは子どもをどう育てようとしているのでしょうか。多くの親御さんはご両親揃ってお子さんを一生懸命育てておられます。私たちの子育て時代には、父親が子どもの学校などの行事に参加するということはほとんどなく、あれば特別のことでした。しかし、今は、保育園などの行事には何かの支障があって来れない人以外は多くの方が両親揃って参加されているようです。

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