今年は1月20日が大寒。日々の寒さが体で敏感に感じるようになった昨今、さすがに今年のこのあたりの寒さは身にしみます。

以前よく村の人に「寒の水(たしか1月13日と聴いたように記憶しているのですが)を汲んでおきなさい。寒の水は一年中腐らないから」と言われたものでした。

そういえば私が子どもの頃には、お正月は旧暦で2月に行われていて、餅つきは必ず2月の正月に向けて1月の終わりからつき始めていたように思います。餅つきに少し遅れて味噌作りも寒い時期に行われていました。昔の人の智恵としてそうしたことがわかっていて、ちゃんとこの時期を選んで行っていたのでしょうね。物のなかった時代、田舎ではどこでもたくさんお餅をつき、しばらく座敷いっぱいに並べて置き、長くて3月ぐらいまでは水につけて、水を替え替え保存して毎朝いただいたものでした。いつも手の届くところにあったそうした餅を自分でよく焼いてはおやつとして食べたものでした。餅をコンロの火の上に乗せると、海のりの味と香りがほしくなり、餅が焼けるまでの間に海までちょっと一走りして岩のりや青のりをとってきて醤油に混ぜ、付け焼きにして食べたものです。

しかし、今では正月でも餅無しの正月を迎える人も少なくないというこのご時勢。ましてかびた餅は食べない方がよいとその道の専門家がしきりにテレビを通して言っているのを聞くと、私たちが日常の生活としてやっていた、たかだか50年ほど前のことが、もう手が届かないほど遠くにいってしまっている時代の変化の速さを切実に感じるのです。

シュタイナー教育に出会って間もなくの、もう30年近く前にもなる頃だったと思います。

近年になって、日本にシュタイナーの思想や教育を紹介されたお一人でおられる高橋巌先生に、講座が終わったあるとき、直接こんな質問をさせていただいたことがあります。

「仏教では“如来”という言葉がありますが、シュタイナーの思想では“如来”と同じ意味の言葉はどういう言葉で表されているのでしょうか?」すると先生は「それは“叡智”です」と即座にお答えになり、それに付け加えられて「その“叡智”に対して今の時代・地球紀(シュタイナーの宇宙史による)の私たちは“愛”という行為で応えるということなのです」と、心を込めてそうした意味のことを答えてくださったのです。質問の本質を的確に捉えて余計なことは話されず本質そのものを答えてくださる先生ですが、いつもまるで禅問答か何かのようなおもいがするのです。ですからそのときもその答に、心の中では「ええっ?・・・・・・・・」と、もぐもぐ思いながらもその場ではそれ以上何もお聞きする言葉を見つけることができず、それ以来ずっと、私の心の中でただただ“叡智、愛”という言葉を引きずって反芻してきたのです。

シュタイナーの世界では実に頻繁に出てくる「自我」という言葉や「愛」という言葉に対して、自分なりに前向きに理解し、消化しようと努めるのですが、仏教的世界を身近に暮らしている私には、仏教用語としては自我=我=エゴ、愛=渇愛などと、どちらかといえば否定的な意味に使われているこうした言葉に出会うたびに、それらの言葉になにか抵抗を感じてしまうのでした。

“愛”という言葉は日本においても今日では何の抵抗もなくとても日常的に使われています。しかし、その使われ方や意味の程度は様々です。

様々な事件が引き起こされている今日の親子関係において見られるその基本となる「愛情」のあり方も様々です。

そうしたなかで、今年いただいた年賀状のなかに、懐かしさを伴って見入ってしまい、深く思いを巡らすひと時を持った一枚のはがきがありました。

そのご家族への返事という形でご紹介したいとおもいます。

お年賀状ありがとうございました。

もうあれから早10年が過ぎたのですね。

一番下の娘えい子と私が見たこともないほどに太いツララが下がる寒い寒い北海道のひびきの村に寄せていただき、ひびきの村へのゲストのお世話をしていただくご家庭としてお宅でお世話になったのは。

年賀状を拝見していると、春から小学一年生になられるというお子さんのR君のため贈られたという絵が、自然とおはがきと一緒に目に浮かんできました。ひびきの村で水彩画の指導をしておられるTさんから贈られたという“小船が今まさに大海に船出せんとしている”大きな素敵な一枚の絵です。確か重ねぬりの水彩画だったように思うのですが。

ご両親をはじめ、日本の各地から、そして世界からも望ましい社会や学校を作ろうと高い志をもって村に集まり、住人となられた人たち。そうした人々によって構成されているひびきの村で、これから入学しようとしている一人のお子さんに、そうした人たちから向けられた人生の門出に当たっての深い思いのこもったこんなに素晴らしい祝福のプレゼントを半ばまばゆい思いで見せていただいていたのです。

そしてR君は今は「いずみの学校」の十年生。そして今年は卒業されるとのこと。
私たちが寄せていただいたときは、大村祐子さんがたった一人のお子さんのために学校を始められたときだったのでしたね。学校にあまり馴染むことができないお子さんのために学校が開かれるまでここで待つといって長野から伊達市に引っ越してきておられたご家族のために。

祐子さんは岳史くんというそのお子さんの目を見たとき、この子のために学校を始めることを決意したと言われたことを記憶しているのです。

もと産院だったという木造のそのこじんまりとした建物が校舎として使われていました。祐子さんは、その学校での当時5年生?だった岳史くんと妹の茜ちゃんのたった二人の授業参観を快く私たちに許可くださり、授業を一緒に体験させてくださったのです。

確か算数の授業だったように思います。シュタイナーの授業風景について少しは知っていました。ですから笛か何かの音楽が取り入れられても、1,2,3,4、・・・と手を打ちながら,前に進んだり、10、9,8,7、と逆に数を数えながら後ろに退いたりそれが更に複雑になる授業には驚きはしませんでした。しかし、こうした経験を日頃あまりしたことのなかった私には、単に頭だけではなく、体や全感覚を作動させなければならない学びはどこもかしこも錆び付いてしまっていてなかなか機敏に反応できなかったことを思い出しました。

当時何か物理の実験的なものも授業に取り入れられていたので、あれは別の授業だったのでしょうか。ニコー少年のお母さんでおられたナンシーさんの授業もありました。あれは英語の授業だったのでしょうか?あまり大きくないバスケットを下げて教室に入って来られて、ろうそくに火をともし、みんなでお祈りをする光景しか思い浮かんでこないのです。このことをご縁に、ニューヨークのシュタイナー学校に在学中だというニコーさんはひびきの村から日本を知るために福井に来られて何日か私たちのところ滞在されたのです。

あれから「いずみの学校」も目に見えての変貌を遂げられたのですね。

(次ページへ続く)

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