子どもたちにお話を聞かせてあげたい、という思いは今回の東日本大震災のずっと前から私の中にありました。私が急いで「おはなしのいずみ」というホームページを立ち上げたのは、被災地の子どもたちへなんとかお話を届けたいと思ったからです。

インターネットにのせれば、廻りまわってきっと必要としているところへ届くと考えました。同時に、被災地に限らず、ぜひ、多くの方にお話を見直していただくきっかけになればと願っています。とはいっても、これは何も新しいことでも何でもありません。もうすでに全国で昔話が見直され、お話の会が図書館や学校で行われて久しいとききます。

では、なぜ、今、お話なのでしょうか? 子どもはテレビやDVD、ゲームなどが大好きです。わざわざお話を聞かせてあげるなんて、子どもにつまらないと言われてしまいそう、と思われる方も多いでしょう。

みんなお話が好き

でも、ちょっと考えてみると、テレビも実はお話でいっぱいです。アニメやドラマ、ドキュメンタリーはもちろん、話の筋があり展開していく、つまりお話です。ニュースも今日こんなことがあったというある種の短いお話です。そう考えると、ゲームもある設定に基づき主人公がいて、勝った負けただの、なぞを解いただのの結末に向かうお話であるといえるかもしれません。もっと広めて考えると、歌や音楽、絵画などにもお話がこめられています。人生の一コマや心情を語ったり、情景を表したりしているからです。特に優れた芸術作品はストレートに心の奥深くまで響かせる力を持っていますね。歴史は私たちの町、国、民族の過去のお話ですし、偉人伝はまぎれもなくすばらしい先人達の生き様のお話です。このように私たちのまわりにはお話がいっぱいあふれています。

私たちの人生もはじまりと終わりがあるお話であり、私たちはこのお話を自分で書き進めているといえないでしょうか。それは実は大変孤独な作業です。誰も私のために書いてくれることはできません。どんなに力になってくれても、誰も代わってくれることはないのです。熱を出して苦しむ子どもを看病しながら、自分が代わりに病気になってこの子を楽にしてやりたいといくら願っても叶いません。なにか不幸なことが起きたとき、なぜ私がこんな目にあうのかとまず思うのが人情です。運命というのは過酷なほど不公平です。今回の震災でもそれをいやというほど突きつけられているのではないでしょうか。私達は肉体や持てる能力から、生かされている環境、人生を構成するすべての要素について、他の誰とも同じということは絶対にありません。

ビートたけし(北野武)の詩、「騙されるな」を紹介します。

“人は何か一つくらい誇れるもの持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やれば出来る
こんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ これだけでたいしたもんだ”

「人は生まれて、生きて、死ぬ/これだけでたいしたもんだ」と言われて、ほっと肩の荷が下りるような気がするのは私だけではないはずです。同じ土俵でということは厳密にはありえない、そんなシビアな道をそれぞれ歩む私達だからこそ、仲間とつながりたい、そしてそこから自分が自分らしく生きるためのヒントを得たいと思うのではないでしょうか。

そう考えると、会話というとおり、私たちが交わす会話のひとつひとつも長短の差はあれ、みんなお話です。悩みを聞いて欲しいと言われると長くなりそうな話だし、「おはよう!(昨日はよく眠れて今起きたよ)」という短いお話もありますね。会話を通して、他人と心のつながりを築くことで元気づけられ、愛をはぐくみ、お互いから学びあっているのではないでしょうか。誰一人自分と同じ人生を歩む人はいないけれど、あの人ははこんなときこう言った、この人はこう生きた、という話を聞くととても参考になります。少なくとも、一寸先は闇ともいえる人生の指針となる何かを得られる、そんな気がします。

だからこそ、私達はみなこのような広い意味でのお話が好きであり、お話を必要としています。

語りは子どもの想像力を育てる

さて、やっとここからが本題。私が子ども達のためにお薦めしたいのは、お話の中でもテレビやDVDのお話ではなく、大人が自分の生の声で聞かせてあげるお話です。特に「語り」は本も何もなしでお話をすることで素話しと呼ばれることもありますが、子ども達へのすばらしい贈り物です。

語りに聞き入る子どもの中では、耳で聞く言葉をたよりにお話の情景を思い描く作業が行われています。この考え、想像する作業は、TVなどで作られた映像を受け取るだけでは全く行われません。この想像力の翼が子どもの可能性を無限大にします。教えられた事柄を暗記するだけが勉強で、それができればいい大学に入れて、いい仕事に就ける、そんな時代はとっくに過ぎました。私たちは、来年どころか、来月、来週の経済さえ予測できない時代に生きています。例えばウィキピディアによると用語としては2006年に生まれたばかりのソーシャルメディアですが、今世界でこれだけ影響力を持ち、今年のエジプト革命の一大要素となることなど誰が予測したでしょうか。

私たちの子ども達は、今は存在だにしない職業についている可能性が大きいのです。飢えた人には魚を与えるのではなく、釣り竿を与え釣り方を教えてあげる方がいいと言います。私たちの古い知識と古い考え方で良かれと思った道を示してやるより、自分で考えて自分で道を切り開いていく力をつけてあげることこそが、教育の目的であるべきです。お話を聞きながら、そんなたくましい力が養われます。(余談になりますが、おもちゃは完成度が高ければ高いほど、子どもにとって無意味だとシュタイナーは言っています。本物そっくり、精巧にできていればいるほど、子どもは想像力を使う余地がなく受け取る一方で、子どもがおもちゃに遊ばれている状態になってしまう。反対に、石ころや木の実、布切れ、ひもなど、見立てれば何にでもなり得るものこそ、子どもが想像力を駆使して遊びを創り出すことを可能にします。)


昔話は宝物

数あるお話の中でも、昔話は世代を超えて語り継がれ、磨かれてきた宝物です。話の面白さ、語りやすく聞きやすい無駄のない文体の中に、生きるヒントや人生のエッセンスが凝縮されています。

例えば、へっこきよめさん。嫁入りの日、付き添いの者が「この娘は少し屁をするから、そのつもりで」と言います。冒頭のこの部分で私はすでに笑ってしまいました。そして、器量も良いし働き者のこの嫁がだんだん顔色が悪くなり、心配になったお姑さんに訳を聞かれると、顔を真っ赤にして、おならをがまんしていることを告げます。がまんしなくていい、とおっかさんに言われると、嫁は「それではさっそくさせてもらいます。おっかさん、はしらにぎっちりつかまっていてください」と言うのです。そして、ものすごいおならがでて、なんとおっかさんは裏の畑まで飛んで行ってしまうのですよ! 柱につかまったところで、どうなっちゃうの?と思い、くすくす来ていましたが、裏の畑までと聞いて、もう大爆笑。話はもっと続き、爆笑も続きますので、あとはお楽しみです。

このお話、面白くて何度も読み返しましたが、そうするとおかしいだけでなく、読むごとに発見があり面白いのです。まず、付き添いの者が「少し屁をする」と言ったこと。私たちも自分の都合のいいように、少しと言ったり、かなりと言ったりしますよね。欲しい物があると「クラスの子みんな持っているから私も買って」なんて私もよく言いました。それから、嫁さんの心の美しさ。顔を真っ赤にして「屁をしたいけど我慢しているからくるしくて」と正直に言うセリフ、この恥じらいと正直さを私は女性として尊敬します。そして最後は、このおならも「おまえの屁にはいいところもある」と長所にかわるのです。災い転じて福となす、ピンチはチャンス、人間の問題や苦しみは幸福への鍵なのだと教えてくれます。他にも書きたいですが、皆さんのお楽しみを台無しにしたくありません。ぜひこのお話を味わって楽しんでください。

もう一つ、有名なところで、こぶとりじいさん。鬼たちの宴会にまぎれこんでしまったおじいさんは、踊りのうまさを認められ、ほっぺのこぶを取ってもらって無事帰ることができました。ところが、隣のおじいさんはこの話を聞いて自分もと出かけて行きますが、こぶを取ってもらうどころか昨日のおじいさんのこぶまでつけられて、こぶが二つになってしまいました。昔話では、人の真似をすると必ず決定的な不幸へと結びついてしまいます。ハッピーエンディングのお話ばかりではありません。とても厳しい面もあるのです。でも人生も実はそうですね。人真似ではうまく行きません。

昔話を聞きながら、子どもは登場人物になりきっています。お話の中で起こることは、自分の身に起きているのと同じことなのです。鬼が出て来たらこわいと身をすくめ、おばあさんの待つ家に帰れたらほっと安心するのです。本当のことのようにそれらを体験しています。自分の人生だけでは到底得られないような、多種多様の豊かな人生体験をお話という安全な形でしているのです。世代を超えて受け継がれて来た人間の叡智を、頭、心、体のすべてで受け取っているのです。人真似をしていては幸せにはなれないという厳しい現実は、幼い子どもにはまだ分からないでしょう。でも、お話から受け取った叡智は子どもの中に深く根を下ろし、必要なときに力となり、指針を与えてくれるでしょう。

昔話のすばらしさについては多くの文献が出ています。なかでも小澤俊夫先生は分かりやすく掘り下げて説明してくださっていて大変感動的ですので、ぜひご参照ください。なかでも私の心に残ったのは、三匹の子ぶた、七匹の子やぎ、わらしべ長者など、一番末っ子が成功する昔話が世界的に多いことについての考察です。

「人はみな一度は末っ子だった」
年が一番下であるということは、逆に言えば、年の上の人たちよりも多くの可能性を秘めているということではないか。
たとえその子が末っ子でなくとも、そもそも子どもというものは社会の中の末っ子といえるのではないだろうか。(『昔ばなしとは何か』小澤俊夫、福武文庫、1990年より引用)

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