今年もツバメがやってきました。

例年のごとくサラナの家の前の電線に止まってチュチュチュチュチュルルルチュルルルジー「巣作りの時期が来ました。今年はどこで巣を作らせてもらえるのでしょう」と、まるで家の中にいる私にも鳴き声が届くかのように、そして半ばせかすようにしきりにさえずりながらこちらの様子を伺っているのです。昨年サラナで孵ったツバメが戻ってきているのでしょうか? どのような長い旅をして今ここに戻ってきているのでしょうか?

その鳴き声に誘われるままに外に出て電線に止まってさえずっているツバメを見上げました。「今年は申し訳ないけれども玄関の中に巣を作ることだけは勘弁してね。しかし、玄関の中以外だったらどこに巣を作ってもいいからね」とおもわず声をかけました。

すると通じたのでしょうか。なんのためらいもなく、以前の外に開かれている玄関の軒先に早ばやと巣を作りはじめたのです。しかし、これまでのようにまた猫か、からすか、なにものかにやられないよう工夫をしてやらなければなりません。なにかよい方法がないかそのことをずっと思案してきたのです。

ありました、ありました。あさがおのつるを這わせる網の棚を玄関口に当てて、他の鳥が入ってこないようにしてみたのです。下からも猫が入ってこないように花壇用に使用する柵で入り口をふさぎました。

おかげで今年ようやく8年目にして初めて外の玄関の軒先で無事雛が孵り、毎日親鳥たちが雛たちにせっせとえさを運んでいます。親鳥が戻ってくると、顔いっぱいに黄色い口をあけてチチチチチチチチッとえさをねだっている雛鳥もたちも随分と成長し、巣立つ日もそう遠くはないでしょう。昨年は6月30日きっかりに巣立って行きましたが、今年はやはり少し遅れているようです。そんなツバメの成長を孫たちはこれもあきもせずにうかがっているのです。今年は5羽のひな鳥の顔が見えます。

毎年の光景なのですが、ツバメの親たちの一糸乱れぬその子育てにおけるチームワークの見事さ。雛たちの巣立ちまでの約2ヶ月間、夫婦としての役割は私には定かではないのですがわき目も振らずまっしぐらに巣作り、子育てに向き合う100パーセントの自己犠牲。自分を無にして取り組むその姿、それは親としての“愛”そのものです。

もちろん本能のままに子育てしている当のツバメたちにとって自己犠牲などという思いなどは微塵もないことだろうとおもうのですが。

何の迷いも、ブレもなく、雛を育てることへのそのひたむきさ。雛が成長するまでの、一羽一羽の雛に一くわえずつの餌を運ぶその全エネルギーを注いでの労力の大変さ、必死さ。そうした子育ての姿にただただ眺めいってしまうのです。

人の生死に関しては、私たち人間は死ねばそれですべておしまいという見方をする立場もありますが死ねば終わりではなく、人は生まれ変わり死に変わりをしているという輪廻転生という立場に立つ見方もあります。

その輪廻転生の立場に立って書かれている『シュタイナーの死者の書ーちくま学芸文庫―』等によれば、私たち人間のなかにも魂の胚種となるものが存在していて、その胚種は今生の在りようの結果が結実したもので、次なる生の地上生活のための胚種なのだというのです。ですから、今生きている在りようは、過去世の結実であって、現世の在りようを見ていると前世の在りようが見えるともいうのです。

時としてその魂の胚種のその形を植物の種の中に確かめることができます。植物はその植物が枯れても、次の世代の植物としての種を残します。感情や自我を持たないといわれている植物の種はあくまでも‘子’としての種なのですが、柿の種のようにその種を割ってみると、その中には既に次の生として生きる命が目に見えるものとして形となって準備されているのです。

過去世において形成された種が、今生においてどのようなところに蒔かれ、どのような配慮のもとで育てられるかという物的な環境と、家族や両親をはじめとしてその育ちにどのような人々が関わるかという人的環境は、植物だけではなく子どもの育ちにおいてもその環境として重要な役割を果たしているのです。中でも家族や両親をはじめとする人的環境は物的環境を上回って子どもの育ちに大きく影響するものです。

 「子どもの生活リズムを整えてあげること」は子どもにとってすばらしいプレゼントだということを以前に書きました。それにもまして人的環境としての、「仲の良い温かい家庭のなかで育てられること」、子どもにとってこれに優るプレゼントはありません。

しかし、この簡単そうなことが人間世界においてはツバメのようにはそうスムーズにはいかないことが多いのです。人間には他の存在と違って「自我」という構成要素が存在するからです。
・生命を持たない石などの存在物はただ「物質」だけから構成されています。
・植物はその物質(体)を生かす力「生命力」が備わって構成されています。
・動物は「物質(肉体)」に「生命力」、そして喜怒哀楽、好き、嫌い、快、不快の「感情」が加わって構成されています。
・そして人間は「物質(肉体)」、「生命力」、「感情」、以外に判断したり、自分を統御する「自我」が備わって構成されているのです。

この「自我」の存在が、子育てにおいてもなかなかの問題であって、その自我が低次な自我なのか、高次の自我なのかそのあり方次第で石や、植物、動物以上にも、それ以下にもなってしまうのです。

そうした家族のありかたを、今回は父親(夫)の役割、母親(妻)の役割に絞って考えてみたいと思います。

以前に父親の役割は何ですかとよく聞かれたことがありました。そうしたときに、まず思い浮かぶ言葉がありました。それは、東大医学部小児科の教授でおられた小林登氏が何かの本に書かれていた言葉なのです。

 「父親とは、子どもが少し成長したとき小高い丘に登って、世界を子どもに指し示すことです」と。

既にそのときの時代の意識は、女性もかなり社会に進出していて、父親であっても子どものオムツを替え、ミルクを飲ませる時代になっていましたので、その言葉を思い浮かべながら、その言葉をそのままその方に伝えることはしなかったようにおもいます。

小林登氏は確かNHKスペシャル驚異の小宇宙「生命誕生」のDVD の監修をされたことを記憶しております。もう20年以上も前になることでしょうか、当時非常勤講師として仁愛短大の保育科の必須教科「乳児」を担当させていただいたとき、そのテープも教材の一つとして使わせていただいていたからです。

私の結論から先に申し上げましょう。今の時代、その夫婦の形がどうであれ、夫婦間がそれなりにうまくいっていて互いに協力し合って子育てに当たり、その子育ての大筋において、自分たちの家庭の幸せが他者への多大な迷惑や悲しみ、犠牲や破壊の上に成り立っているというような人間としての基本的な間違をおかしていなければ、それはそれで特別な問題はないと思うのです。

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