◆ツバメの巣立ち

今年はツバメの巣立ちを確かめる間もなく気がついたときには一羽残らずきれいに巣立っていった後でした。朝が早いツバメたちです。巣立ちは早朝に行われたのでしょうか。今年はその巣立ちを見届けることができずちょっとさみしいような、残念な思いでいました。

ところが翌日幾羽かのつばめが家の前の電線にとまって賑やかにさえずっているのです。そのさえずりに誘われてまたもや玄関に出てみました。

ツバメたちを見上げて「あなたたち‘サラナ’を巣立ったツバメさんたち?」 ‘さあ勇気を出して飛ぶのよ!’といわんばかりに、昨年のようにくちばしでつつかれているのを見るとどうもそうらしいです。

すると突然そのツバメたちがまるで扇を広げたように翼をいっぱいに広げて私の立つサラナの玄関めがけて飛んできたのです。そして玄関内を何度か軽やかに回遊飛行始めると玄関の壁にしばらく止まって、また飛び立っていくことを何度か繰り返すのです。でも巣立った巣にだけは止まったり、入ったりは決してしないのです。

これは一体どういうことでしょう?
燕語がわからない私の勝手な解釈なのですが・・・、
巣立った所が懐かしく舞い戻ってきた?
それとも軽やかに飛べるようになったその飛行姿を見せるため?
それとも私の顔をおぼえてお礼を言うため?
そしてまさかと思うけどまた巣作り?それにしてはちょっと数が多すぎるし・・・。

それから数日間は、電線に止まっているツバメたちは私が玄関に立つたびに、玄関までは入らないのですが、巣を壊さないようにと立てかけた朝顔の網の棚めがけて飛行してくるのでした。かなり日数が立った今でも毎日、幾羽かのツバメがやってきて電線に止まってさえずっているのです。

こんな習性がつばめにはあったのでしょうか?

「そう‘サラナ’はあなたたちにとっても正真正銘の‘育った家’。いつでも帰っておいで!」ツバメたちの思いがけない行動に、ちょっとツバメの世界と通ずることができたようなうれしい思いをさせてもらっているのです。

◆夫婦の現実?

最近は、どこに出かけても夫婦でお子さんを連れた家族での行動を目にするのが当たり前になりました。そしてそこではまたお父さんがとてもかいがいしくお子さんの世話をしているのです。

福井は他県に比べてまだ同居家族が多いようにおもいます。世の中が不景気になると逆に同居家族が増えてきているように思えます。

同居家族では何かと互いに悩むことも多く、問題も多いことだろうとおもいますが、今日ではそうした姑、舅問題も社会的にはかなりクリアーされて、核家族で夫婦だけの幸せな生活を営むことも当たり前の世の中です。

日頃は、お父さんとの接触よりも、お母さんたちとの接触が多い中、どうしてもお母さんの側の声を聞くことが多いのですが・・・。一見仲むつまじく見えても、一歩その中に入ってみると

・「夫が何も家事や育児の協力をしてくれない」
・「仕事、仕事で家にいることが少ない」
・「なかなか話を聞いてくれない」
・「なかなか子どもと一緒に遊んでやってくれない」
・「たまに家にいても横になってテレビをつけてごろごろしているだけ」

そんな声も耳にするのです。

まるで私たちの世代の夫婦とあまり代わらないようにも思えます。そしてこの段階までの話はどこにでもあることなのです。

時代が遡れば遡るほど、よほど開けている夫婦でないかぎりまだまだ「男たるものは・・・」、「女性は・・・」「夫たるものは・・・」「妻は・・・」「父親たるものは・・・」「母親は・・・」‘かくあるべし’とか、‘そうあるべきものだ’という眼に見えない意識の尺度が敷かれていて女性や社会全般がその意識の尺度に強く拘束されてきたものでした。

小さいときから男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくその違いをはっきり区別して育てることが世の常でした。(今の時代その‘らしく’を振りかざすことはタブーとなっていますが)

私たちの世代においては女性が外で働くことはもう当たり前の社会になっていましたが、そうした時代であってもその根底においては、今でもそうして育てられた影響が強く尾を引いていて、まだまだ家事や子育てにおいて夫の協力を得ようとおもうことさえ女性としてあるまじきことと思われることが多いのです。

私たちの時代は、まだ夫に家事や育児の協力をしてもらうものではないというおもいがまだ当たり前だったからでしょうか、「男女平等」が当たり前のこととしてまかり通る今の時代に比べてそれほど不満に思わないですんできたことも多かったのかもしれません。

今日の福井においては、まだ若い女性のその意識において私たちの時代とあまり大差がないように思える場面に出くわすこともよくあります。

しかし、夫の権威的、権力的な側面はほとんど消え、その協力においても同等でとても軽やかだということが私たちの時代と大きく違っているようです。

また個人の自由や個性が尊重、優先される現在、感情をコントロールすることも昔に比べてそれほど必要とされなくなってきておりますので、以前の人たちのようにそれほど我慢しないでも不満を不満としてストレートに出せる状況になってきているということもあるのでしょう。

また食べ物が変わり、肉食をするようになって、女性も強くなったこともあげられると唱える人もおります。

◆理想の夫婦としての特効薬は?

現在は昔の時代のように周りの了解の中で進められた「見合い結婚」と称されている結婚よりも、本人同士の了解のもとでの「恋愛結婚」と称される結婚がほとんどです。

ただし、“好き”だけでは結婚生活を営んで行くことはできません。まして親になるということは親として“子どもに対しての責任を負うこと”です。ですから親としてへの努力が必要になります。その努力を夫婦が共に協力し合ってなされるのであればこんなに理想的なことはありません。

しかし、他者の目には理想的な夫婦に見えても、一度もけんかをしたことのないとか、生まれ変わってもまた夫婦になりたいとかいえる夫婦はそう多くはないのではないでしょうか。

若く元気なときは、そのエネルギーに任せてとかく相手が悪いと相手や周りを説得したり、責めたり、相手を変えようとしがちです。いかに相手に理解してもらうかという工夫や努力は必要です。それで効果があるのであればそれはそれでよいとおもうのです。しかし、私の経験では相手を変えようとしたりする方法はあまり効果がなく、期待できないように思われるのです。

かえって相手の反感を買ったり、自分の思うような結果にならずその結果苛立ちが募ったり、悔しさや悲しい思いだけが自分に返ってきたりすることになりがちです。

人生そうした苦い経験を繰り返しながらも、そうした経験が腑に落ちて‘生きる智恵’となって賢く生きることができるようになれるまでにはそれ相当の年月を要するようにおもいます。

夫婦関係だけではなく人間関係全般にわたってもいえることなのですが、周りを自分にとって都合の良いように変えたり、他者を変えたりすることはそう容易なことではないのです。

“馬を川まで連れて行くことはできるが馬に水を飲ませることはできない”という諺があります。

この諺のように、究極においては本人自身が自覚しなければ周りがどんなにせめてもただただ徒労に終わるだけなのです。言い換えれば、すべての人間は自分が本当に自覚できたときにしか変わることができないのです。使われている意味が少し違うかもしれませんが「すべての教育は自己教育」であるとも言われているのです。

そのことがあらかじめ夫婦や人との関わりにおいての‘智恵’として初めからわかっていたり、教えられていたりすれば、もっと賢く、幸せな結婚生活や人生が送れるのかもしれません。

昔は側で自分の経験として聞かせる人がいて、それに素直に耳を傾ける人がいました。しかし、自意識が発達してきている現代においては、それは不可能です。自分がいろいろな壁にぶつかって自覚するのを待たなければならない時代のようです。