◆現行の保育所は子どもにとって?

今日では、これまでの家庭での保育に代わって早い時期から保育所に通わせるご家庭が多くなりました。現代社会においては、働く親御さんにとって保育所は無くてはならない存在として全面的に近い信頼を受け、その存在がどれだけたくさんの人の助けになってきているかは計り知れません。

しかし、長らく保育の仕事にたずさわっていますと、保育所の存在的意味が、本当に子ども本来の育ちにとってどうなのだろうと考えざるを得ないこともしばしばでした。

保育所が働く親御さんにとって利用しやすくなればなるほど(働く大人の保育所に対する要望がかなえばかなうほど)その保育内容は“子どもとしてのあたりまえな育ち”から少しずつかけ離れていくように思われます。そして、そのあたりまえの育ちからかけ離れていくことに対して大人はあまり敏感に捉えていないようです。これくらいまではいいだろう、これくらいまではいいだろうと、まるで現在の放射性物質に対する私たちの感覚のように、思いが時と共にあたりまえになって行くことの怖さ。

なぜなら親であっても働く大人です。子どもの育ち云々の前にどうしても自分たちの利用しやすい方向性や、都合が先立ち、優先されていきがちだからです。そしてその大人の都合に‘まだものを言えぬ幼子’が合わせられてきたのが保育所保育の側面でもあるのです。そういう意味において保育所の存在が子どもにとって本当にベストなのかと疑問に思うことも少なくなかったのです。

たとえば保育所保育では個々の発達を大事に、その個々の発達に応じた保育をといわれているのですが、日本の保育の最低基準では
※1歳にならない乳児は子ども3人に1人の保育士
※3歳未満時は6人に1人
※3歳児は20人に1人
※4,5歳児は30人に1人
と国の基準で決められていて、この最低基準の改定が現場の立場から何十年も叫ばれていながらいまだに変更されていないのです。

発達年齢にあった保育をしようと、現場ではいろいろと工夫をして取り組んできているのですが、子どもの受け持ち数が多ければどんなに工夫をしたとしても限界があるのです。(家庭においては三つ子ちゃんや五つ子ちゃんでない限り、3歳ぐらいまでの子どもは1人の親が家族の協力のもとで見るのが自然な姿であって、保育士という専門家であっても1人で見ることができる子どもの数には限界があるのです)

時として、幼児に集団で行動させるということは、効率的扱い方だとして批判をあびがちですが、発達年齢的にはまだ無理があるとおもわれる乳児や幼児に対して集団的保育の方法はよくないことが十分にわかっていてもその方法を取らざるを得ないことも多くなるのです。

また、安全第一の現代社会では、施設や保育所で行われる集団保育の食事や保育活動での衛生、安全性が、近年何においても優先されるようになりました。だから保育所は安全だと思われがちです。しかし、裏を返せば家庭では(普通の生活では)そこまではしない消毒や衛生管理。そして他者への責任転嫁とその責任追及の強くなった現在社会において危険なことはなるべくしない、させないということに通じていってしまうということは周知のことと思います。

さらに、どんなに小さい赤ちゃんや幼い子であっても保育士は先生であって家族ではないのです。家族との違いを小さいながらもきちんと把握しているのです。大人は8時間労働であっても、子どもには大人の仕事上長い子で11時間以上にわたる保育所生活であっても公的に認められます。そして、幼い子どもにとっての適した食事時間が(5時から6時)がとっくに過ぎても夕食を食べずに親の迎えを待たなければならないのです。

病時保育という問題もあります。誰でも病気のときは信頼する人がそばにいてほしいものです。まして幼子において病気だからといって突然知らない病院に預けられるということは大変なことなのです。

保育所を成り立たたせてきた歴史を丁寧にひも解いてみると、そこに答えを見つけることできるようにおもわれます。今回の震災でも見られたように、人は究極の状況におかれたとき互いに他者を思いやる人と人との温かい思いやりや、つながりのなかで、そのときにできる最善のことの工夫、力の出し合い、担い合いで成り立たせてきたとおもうのです。(私は保育所の草分け的時代を保母として取り組まれていた人たちのそうした貴重な話をまだ直接聞かせていただくことができました)

それが制度化することにより次第に機械化、無機化、利用者の人たちは人たちで少しでも多くの‘利’を得ようとする精神に代わってきてしまっているようです。

保育所として、こうした時代だからこそ、あらためて家庭保育の原点や福祉制度の原点となる初発の時期に立ち戻り、そうした精神性を見直す必要を感じるのです。そこには「保育所の見直し」や、ひいては子どもの育ちの立場に立った「子育ての見直し」に新たな視点となる学ぶべきたくさんのヒントを見出すことができるとおもわれからです。

同居家族が当たり前だった時代には、保育所はまだあまり社会的に必要とはされていなかったのです。一般の家庭においては、若い世代は一生懸命働き、子どものお守りはその多くは年寄りの仕事でもあったのです。

今では国を挙げて幼保一元化が勧められつつありますが、それまでは社会的な見方として、幼稚園は保育園に比べてレベルが高く、保育園は幼稚園よりもレベルが低かったり、貧しい子が行くところだったりと一段低く見られがちだったのです。

しかし、人々の意識が大きく変わって、親御さんが勤めていなくても、また家庭で見る人があっても、できるだけ子どもは小さいうちから保育所に預けて集団生活をさせることがよいと考えられるようになってきました。保育所は4時まで長く預かってくれるのでその方が楽だとか、得だとか。‘子どもの育ち’を損得で考える傾向も特別なことではなくなってきています。働かないで家で子どもを見ているのと、保育料を払ってでも外で働いた方が得かどうかという、収入と子育てが天秤にかけられることも普通に考えられることとなっています。

こうして社会的に保育所の需要が高まり、テレビの視聴率のように、待機児童の数のみが話題にあがるなかで、少しでも多くの子どもが入所できるようその解決方法が模索されてきたのです。その結果の表れの一つが幼保一元化、認定子ども園の拡充だと思います。

おじいちゃんやおばあちゃんの立場の人も、また娘や息子がどんなに子どもを見てほしいとおもっても、昔と違って今の人はまだまだ元気で勤めを続けていたり、たとえ孫であっても我が子ではないそんな気を使わなければならないお役はご免だと自分の余暇を旅行に趣味にと楽しく過ごしたりする人も多いというのです。

◆実の親子の確執

福井の郊外や田舎においては、昼は子どもを保育園に預け、その送り迎えはおじいちゃんおばあちゃんの役目。という家庭もまだまだ多いように思います。ですから4時になれば迎えにいけるのです。

しかし、親御さんたちのなかには実の親子であっても、見解の違いから自分の子どもを実の親にさえ託そうなどとはこれっぽっちも思わないという親子関係も少なくないというのです。嫁、姑の関係と共に実の親と子の確執もよくあり、よく見聞きすることです。

結婚を機に、いやそれまでの親への不満が募り募ってそれを期に爆発して?実の親子においても確執のすさまじさに目を背けずにはいられないこともよく見聞きいたします。特別な虐待を親から受けたわけでもなく、むしろ他者から見ればうらやましがられる家庭に育ったとしてもなのです。

年をとってもなお親への不満や批判の思いが昇華できずにそうしたおもいを抱き続けている人も私の周りにはおられます。ある講座でそこに参加していた若い人たちがさかんに親への不満を発言しているのです。講師の人自身が親に対してそうした思いを抱いている人でしたので、その講座を利用して親に対して不満を抱くそうした若い親御さんたちの心にある不満を吐き出させる意味もあったのかもしれません。盛んに親を批判する人もいれば、まるで眠れる子を起こすような。いや、日頃そこまで思っていなくてもかえってあおられて日ごろの不満を言いたいだけ言ってしまっているそんな雰囲気も感じないではない人もいるなかで、こんなに親に対して不満を感じている人が多いのだと我が身を省みる思いで聞かせていただいたのです。

“人を恨むということは究極的には自分の存在をも恨むことになるのです”。この世に生まれ出させてもらったこと。これ以上に優ることはないことが本当にわかるまでにはそれなりの年月が必要とされるのでしょう。ましてそれが感謝の思いに変わるまでにはこの世の時間では足りないのかもしれません。

やはりテレビで放映されていたことです。確か中学生ぐらいの女の子でした。小さいときにその子の母親がその子をおいて家を出てしまい、おばあちゃんに育てられたのでした。まだ年端のいかないながら健気にもその子の苦労のすべてを感謝の思いの歌詞に代え、音楽に託して街頭でギターを片手にその歌を歌うのです。

その歌が番組制作者の目に止まったのでしょう。ドキュメントとして放映されていました。微塵も親を恨まないのです。この世に生み出してもらったことへの感謝こそすれ。この年でどうしてそこまで思えるのかがかえって不思議に思われるくらいでした。

しかし、後になって一緒に暮らそうというその母親に対して、“私は私の人生を生きるから”といってさすが親と一緒に暮らすまでは同意しなかったようでした。

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