■まずはやはり家族の協力が一番

ずっと遅れて蒔いた大根や秋蒔きの根菜類も、本格的な寒さに入る前の穏やかな日々のなかですっかり大きく育ちました。風の吹くままに、さわさわとかすかな葉音を立てて今が食べごろとばかりに風に揺れている、その伸びやかに柔らかそうに育った菜葉をみると、思わず“おいしそう”と声が出てしまいそう。根菜類はそのまま食べてみるとその味がよくわかるのです。娘に習って始まったちょっと味見を、と葉っぱを少しちぎって口に入れた一瞬おもわず緊張が走る。‘洗わなくても大丈夫だった? しかし、土や風や太陽や自然の力を一杯受けて生き生きと育ったその葉の、穏やかでやさしく、ほんのり甘くふわっと体を包み込むようなその味を味わったとき、不要な心配などいっぺんに吹き飛んでしまいました。

どのようにしていただいたら、この味を一番生かせるだろう。ゆでたり煮たりして熱を加えてしまうのはなんだかこの菜葉には申し訳ない。かといってサラダには少し大きくなりすぎた。そうだ‘お葉漬け’にしてみよう。ついでに蕪やみぶなや白菜も採って入れて。間引きした大根葉は ‘おあい飯’( ※)に! いつも畑からの帰りは一輪車いっぱいの大地からの贈り物。そうした恵みにありがとうと心からの感謝の言葉を言わずにいられないのです。そして一輪車を押ながらの家までの道のり、弾むおもいであれこれとその料理方に思いをめぐらすのです。“ばあちゃんの作った菜っ葉のご飯、菜っ葉の漬物おいしいよ”もりもり食べる孫たちのこの一言につい顔もほころびます。そしてまた年甲斐もなく張り切ってしまうのです。

そうなのです。どの子もその成長を心から願う家族の中で健やかに育ってほしいのです。親御さんだけで上手にお子さんを育てられている家庭もありますが、今の時代、多くの子育てにおいては、親御さんにとっても子どもの立場においてもその子育ての傍らにあって付き添う支援の手の必要性を痛切に感じます。そうした支援の中でそのことが可能ならば、やはりおじいちゃん、おばあちゃんを含む家族の支援に優るものはないと思うのです。特にまだ幼児期にある保育園での遅くなってのお迎えのお子さんには職員が交代でしかあたれませんし、お子さんが病気だったりするときにはなおさらなのです。なぜならば、今の時代においてもまだ肉親の思いは何にも増して強いからです。肉親は心からその子の健やかな育ちを願い、欲得なしで手を差し伸べ、尽くすことができるからです。

いつかテレビで放映されていた大家族の101歳になるおばあちゃんの言葉のように“血のつながりは・・・すごい”のです。しかしです。実際には家で見る人がいても子どもが家にいると大変だからということで土曜保育でも登園させたり、少しでも遅くまで預かってもらわなくてはと勤めが終わっても家の掃除や買い物を済ませたあとで迎えに来る家庭や親御さんがいたりもしたのです。  

それだけではなく家族にも二面性があるようです。その血のつながりのすごさがうまく機能すればこの上なくよいのですが、現代社会では家族間も一つ間違うととんでもないことになってしまうのです。悲しいことには泥沼的争いの場と化してしまった家族を目の当たりにすることもよくあるのです。

若い世代も年寄りの世代も昔の人たちの意識とは大きく違ってきています。お互いに干渉したり、干渉されていろいろとトラブルを起こすくらいなら別々に暮らして気楽に過ごしたほうがよいと思う人が多くなってきているのです。そのように時代的に人々の意識が変化してきているのです。

しかし、最近の不安定で不景気な世の中のせいでしょうか。これまでのように「個」が重視される社会的傾向からか、テレビなどを通じて親への反抗を強調して報道しがちだった社会的傾向も最近では親への孝行や感謝の気持ちを強調して報道する傾向に代わってきているように思うのは私だけでしょうか。それらのせいかどうかはわかりませんが私の周りでは同居家族が多くなってきているようです。

「福井ってどこにあるの?九州だった?東北だった?」とこれまではよく言われた福井が、最近、“日本一住みよい県”といわれるようになったというのです。民族映画を撮り続けてこられた姫田忠義監督がよく言っておられたように、一番ビリを走っていたと思いきやいつの間にか先頭になっていたと・・・。

そうした福井においては、子育てへの家族間の協力はまだまだ健在なようです。同居生活でもまるで実の親子のように仲むつまじい家族もよく見受けられます。しかし、仲良く協力し合っている家族といえども実際に家族のそれぞれの思いを漏れ聞くと、同居はしているがそれぞれがなんの不満もなく何の問題もなく平穏に暮らせているということでは決してないようです。多くの家庭においては実際には家族がお互いそれぞれに時には不満があってくすぶりあいながらでもそのなかで我慢をしたり、協力しあったりして暮らしているというのです。

これまで保育園で大勢のお子さんをお預かりしながら、子どもの健やかな育ちのために家族が協力し合える状況であったり、協力し合える状況にありながら何らかの理由から協力し合わない家族に対して、お子さんのためにも更に家族間のつながりが確かでよいつながりとなって協力し合えるための、社会的、公共的、第三者的立場からの何らかの介在による働きかけの必要を常々強く感じてきたのです。

先日、ある児童館から、「4月からの入園予定のお子さんをお持ちのご家庭の方に対して入園前に配慮すべきことに対しての話をしてほしい」と依頼がありました。これまでこうしたところに積極的に出向くことはあまりなかったのですが、今の時代、そうしたところに集まってこられる方々のお話に耳を傾けることで、今の時代にとって本当に必要とされる育児支援のあり方の糸口を見いだすことができるように思えお引き受けしたのです。

いつも来られる数はそう多くはないとのことで、その日も来られた方の数はそれほど多くはなかったのですが、いろいろな質問が矢継ぎ早に出て終わる時間がお約束の時間を優に過ぎてしまっていたほどでした。その日与えられたテーマに対する質問として、‘まだ自分で食べられないが入所して大丈夫だろうか’とか、‘食事の量や好き嫌い、特に野菜を食べない’などの「食事に関すること」、‘オムツがまだ取れていないが大丈夫だろうか’とか‘現代の紙おむつ使用に関する育児について’などの「排泄の自立に関すること」など、それらの質問からいろいろな話題が展開し、赤ちゃんへの語りかけとして親が歌など歌ってあげるよりも絵本の読み聞かせが多くなっているということなど、どの話題も現代の子どもの育ちにとって無視して通ることのできない大切なことばかりでした。

中でも同居、2世帯別居という形をとりながらの子育てへの協力のあり方やその悩みや提言、希望という異なった世代間での話題にも話が展開していきました。若い人たちには若い人たちの思いがあり、おしゅうとさんたちの立場にはお姑さんたちの希望や思いがあるのです。

そうした両者が、風通しよく通じ合って、健やかな子育てに一丸となって取り組めるようになるために、他者が、たとえばこうした児童館や保育園、支援活動に当たる公共施設が仲立ちとなっておたがいの言い分をよく聞き、子育てに当たる人たちに同じ土俵に上がってもらってお互いの言い分に耳を傾けあう機会を作ることの必要性をまさに強く感じました。その方法は、うかつに踏み込めない面も含んでおりますので、よく考え、慎重であるべきですが、特に社会的立場からいって、われ関せずで通り過ぎてしまっていい問題では決してないように思われます。

異なった世代を含めて子育てに当たる人すべての人が聞くべきこととして、お互いにそうした場に出て、そこで子育てとしてあるべきことを聞き、そのなかで、それらの妨げとなっている問題として違った立場の話に耳を傾け、それぞれの思いを知ることからはじめていくことです。そうしたことを積み重ねていくなかで、そうした仲立ちを通した努力によって、では自分の家族では子どもの育ちのためにどうかということを、家族間で率直に言い合えるまでに、家族間での良き子育てへの協力へつなげていってもらえたらと願うのです。

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