◆生命の力

青葉若葉の美しい季節となりました。

ほんの数年前まではまだまだ若木と思っていた狐川の堤防沿いに植えられている桜並木もここ近年すっかり成長して我を忘れて見入ってしまうほどまさに見事としかいいようのないほどにみごとな桜をつけてくれるようになりました。

昨年あたりから花見時には赤い提灯が並木に沿って下げられるようになりました。夜にはその長く続く提灯に灯かりが灯され、夜遅くの孫の剣道の稽古の帰りには狐川に架かる橋に向かう道の遠くからでも暗闇の中に赤い帯状になって浮かびあがって目に飛び込んでくるのです。風にでも揺れてでしょうか、まるで生き物のように動くその赤い灯かりの列は、昼の桜とはまるで違った雰囲気の華やぎをもち、これまた目が釘付けになり、孫と見とれながら帰ってくるのです。

そんなこともほんのこの間と思ううちに、桜並木の若葉もその色の濃さを日増しに増して今はすっかり葉桜。そしてその緑の繁りがまるで遠近法で描かれた絵のように遠くまでかすんで続いていて、どこまでが並木でどこからが山々なのかその先が背景となる緑の山々に解けこんではっきりしない光景にこれまた見事としか言いようがなく、つい車を止めてしばし見入ってしまうのです。そして‘福井はいいな!こんな光景の中に住まえて’とついおもってしまうのです。

長い寒さの間は地中深く眠っていた‘根っこの子どもたち’。その寒さからやっと解き放たれ暖かい春の季節の訪れを迎える頃、子どもたちにはそのお話、『根っこのこどもたち目をさますー童話館出版』をいつも語ってきたのです。根っこの子どもたちがようやく深い眠りから覚め、ふきのとう、たんぽぽ、つくし、せり、よもぎ、そして様々な春の花々を携えて地上に顔を出したとおもうつかの間に、この地上世界はその命に満ちあふれ、埋め尽くされていくのです。

そして今、青々とした若葉、青葉に包まれた山々を背にした葉桜の並木の光景。その光景を見ているとその光景の背後に在ってその葉の一枚一枚にまでも刻々と送り出されている命の世界が手に取るように感じられ、私までもがその命の世界に包み込まれ、その光景の中に溶け込んで一体になっているようないいようのない安らぎの中におかれるのです。

私たちは私たちの目で見えること、耳に聞こえること、鼻でかぐこと、口で味わうこと、体で触れることなどの私たちの感覚で捉えることや、私たちのはからいで捉えられた世界を絶対的なものと思っていませんか?

しかし、こうした光景を目の当たりにしていると、子どもの育ちを考えるとき、いや私たちの生きるうえにおいても私たちのはからいを超えて私たちに働きかけている存在が如実に感じられてくるのです。

現在の私たちはまだそれを手にとって見ることや感覚で捉えることはできません。しかし、その光景のなかに身を置いて意識を凝らしてみていると、私たちのはからいを超えて存在し地上のありとあらゆる命を生かし育む「生命の力」のまぎれもなく存在していることがひしひしと伝わってくるのです。

私たちが毎日いただいているさまざまな食べ物。それらの食べ物に対して私たちはあたりまえになってはいませんか?

そんな食べ物について私たちの周りに満ち満ちている恵みとしての食材や、福井に伝わる郷土料理(私たちの年代には既になじみの料理としてあたりまえになっているものでも、若い方々には福井に住んでいても知らなくなっているものがたくさんあるようです。そんな郷土料理について機会があれば教えてほしいというご要望も届いております)のご紹介やその簡単な料理法、行事にまつわる食事などにも触れていきたいとおもいます。

私はその道の専門家ではありませんが子どもの頃から見聞きしてきたことや幼児教育を通してのその責任において学んだり、体験したり、知っている範囲ではあるのですがみていくなかで、そのなかで浮かび上がってくる子どもの食生活のありよう「食生活を整える」についてご一緒に考えていきたいと思います。

◆福井の春の恵み

福井で育った、あるいは福井に住んでおられる皆さんにとっては既におなじみのものだとおもわれるのですが、福井の私たちの周りの春先の自然界からの恵みについてもちょっとみていきたいとおもいます。

今年ほどたくさん「つくしのきんぴら」(※)を作った年はありませんでした。いつもは季節を楽しむために孫たちと摘んできて我が家で少しいただいてきたのですが、今年は孫の剣道仲間の若いお母さんたちと一緒に作ったり、持ち寄ったりして食事をいただく機会がありました。その持ち寄りの一品としてこんなに自然に恵まれた福井にあって、そのおいしさをつい皆さんにお分けせずにはいられなかったのです。若いお母さん方はもちろんほかにお分けしたほとんどの方はつくしを食べたことなんてはじめてと言われるのです。中にはあまりおいしくて一気に食べてしまったといってくださる方もおられました。

そしてたけのこ。今年はたけのこが豊作だということで、皆さんあちらこちらからいただいたと話しておられました。私も、いただいたものの処理がにがてだといって、十数本のたけのこが届き、ゆがいて料理をするのに一時は大変でした。たけのこご飯、お吸い物、薄皮の木の芽合え、煮付けなどなど、作っては届け、私たちも充分に堪能させていただきました。

そして海の幸、小女子がいっせいに店先に並びます。ほたるいか。そして海から採ったままの若布。それを天日に干した板わかめ、板わかめをもんで細かくした粉わかめ。温かいご飯にかけた粉わかめも子どもたちはきっと大好きだとおもうのです。

そのように春の声が聞こえると‘つかの間のもの’として、もう目移りとわくわく感が同時に起こるほど春の香りに満ちた食べ物で満ち溢れるのです。

私がよく出かける清水町の「膳野菜」では今ではこんなものまで?と思われる‘つくし’や‘ほう葉めし’まで並べて売られていました。そして今は山菜。野ぶき、たらのめ、うど、こしあぶら・・・限りがありません。まだしばらくは春の海の幸、山の幸、里の幸で賑わうことでしょう。

このように日本は、福井は、豊かな自然とその恵みに満ち溢れているのです。「人は食べたところのものになる」。そんな言葉を聞かれたことはありませんか?何を食べて育ったかその食べ物によって人間がどのような人になるのかも決定付けられるのだといわれるほどに食べ物の力はすごいということなのでしょうね。

◆子どもの時代に食べた物

「幼日の 鯖の味噌煮は 旨かりき かの日の味は 今はまぼろし」

亡き兄の写真の横に添えられていた短冊に書かれていた歌です。生前兄が詠んだ歌をどなたかが短冊に書いてくださったものだということです。この歌を目にしたとき思わず胸がいっぱいになりました。幼き頃の今はなき家族のありし様子がほうふつと思い起こされたのです。

しかし、鯖の味噌に?そんなもの母が作ったのかしら?そんなのもの私は食べなかったよ。何か記憶違いではない?私の記憶のなかにはまったく「鯖の味噌煮」など食べた記憶はないのです。いわしの煮たのは覚えているけれど。遊びから帰ってくると玄関に入る前から漂ってくるあの醤油で煮たいわしの香ばしい香り。あの味を今一度味わいたいと何度も挑戦してきたのですが未だにその味を味わうことができないできているのです。当時のような超新鮮ないわしではないからなのでしょうか。