気象観測と天気予報を主たる仕事とする測候所は、災害を予測して被害を少なくし、人命を救うことを目的としています。多くの測候所はこの趣旨で作られましたが、始めの頃は海運や漁業を支える目的が主でした。

福井県では1885年(明18)敦賀港に暴風信号柱を設置して、中央気象台から通知してきた暴風警報を掲揚し海運や漁業者に知らせました。当時は通報手段が少なく、全国の測候所は信号柱により風向きや天気予報、警報を吹流しや旗を使って市民に知らせていました。港湾では夜間は電球の色分けで知らせていましたが、電球がよく切れて値段も高いので、維持するには相当費用がかかったと記録にあります。

福井県でも明治24年には経費難のため中止しましたが、敦賀町町会議員の片山政治氏は船舶漁業者の不便を見るに忍びず、私財を投じて再建し公衆の便を図ったと記録にあります。

筆者が勤務した富山県高岡市伏木測候所は1883年(明16年)12月に伏木灯明台(灯台)内に設置され観測を開始しました。日本で最初の民間により出来た測候所で、観測員は2名。当時の観測記録を見ますと、1月1日から12月31日までの1年間を1人の観測員が記録して氏名を記しています。観測機器類は中央気象台から借り受け、経費は僅か数百円に満たない有志の寄付金で維持されていました。

設立は当地の大回船問屋藤井能三氏の私財によるものでした。藤井能三氏は明治6年に富山県で初めての公立小学校を誕生させ、明治9年には藤井女児小学校を開校するなど、海運業以外でも地域発展のために尽力した人です。

測候所は明治25年に県営となり同町臥浦に新築移転し、秋田測候所から6年間の気象研究に励んだ大森虎之助氏を所長に迎えました。

1921年(大10年)9月25日朝、中央気象台は四国の南海上にある台風は北東進して八丈島方面に進むと予想していましたが、25日夜には北上予想に切り替えて、各測候所に警戒電報を発しました。当時は電報局経由で配達されていましたので、伏木測候所では所長が退庁後に観測員が電報を受け取り、机上に放置したままでした。

台風は紀伊半島に上陸し、福井県敦賀付近を通過し26日には能登半島に達しました。この台風通過で敦賀では最低気圧975hPa最大風速20.3mを記録し、福井県嶺北地方は死者3名、浸水家屋3000戸に達し、近年稀な被害となりました。

富山県地方は26日未明の3時半頃、突然暴風が吹き荒れ伏木測候所は26日6時に南の風で最大風速19.4mに達し、富山湾に出漁中の漁船約150隻、乗組員約500名は行方不明の大惨事となりました。富山湾に面した海岸は小さな漁港が点在して豊富な海の幸を捕獲していました。漁港ごとに気象警報通知電灯柱があり、沖合の船舶に警戒を促すようになっていました。

先に記したように測候所に届いた警報を各漁港に通知しなかった為、操業中の漁船は知るよしもなく災害にまきこまれてしまいました。県議会では測候所の責任追及が激しく、所長は窮地に追い込まれるなか、善後事務を整理し、経過報告を作り遺書を卓上に残して、2カ月後の11月26日魚津沖に死体で浮かぶに至りました。

当時の観測所は全国で約20箇所、予報は中央気象台で作成して、各測候所へ電報で知らせるなど、未整備や技術の未熟さもあり、今では想像出来ない貧相な体制の下に起こった悲劇でした。

気象人の受難は続き翌年には千葉県銚子港の漁船に海難が相次いで起こり、予報が充分に的確に行われなかったことに責任を感じて、所長大村信之助は身を海に投じました。人の命を助ける仕事をしながら自らが命を絶つ悲劇は、繰り返してはならないことです。