昭和31年7月31日の天気図

同年8月1日の天気図

筆者は1954年10月に福井測候所へ就職し、はじめに指導されたのは予想もしなかったモールス信号の習得でした。

当時は気象官署間の連絡は電話を除き、全てモールス電信によるもので、観測して結果を送るのも、天気図作成の情報受信も、上級官署から予報の指示を受けるのもトンツーです。明けても暮れても先輩からトンツーの特訓を受けて現業に就いたのは翌年1月でした。

朝の予報は3時に起きて、中央気象台の放送コールサインJMBを無線機で受信し、数字を記号に直して天気図に記入します。当時は中国大陸(※1)と北朝鮮は入電無しで、シベリアと韓国、台湾、香港それに海上の船舶のデータのみでした。

日本に最も重要な中国大陸の資料がなく、中央気象台から指示してくる主な等圧線と高気圧低気圧の位置を参考に予報していましたが、中央気象台で空白の大陸の状況を解析する苦労は大変なものでした。

昭和29年10月11日、北京紫光閣における日本文化使節団と周恩来首相との会見で、使節団に参加した中央気象台台長和達清夫は、気象情報の提供を要望しました。これに対して周首相は「悪用されない保障のもとに」と答えました。

しかし当時の国際情勢のもとでは気象放送は行われず、昭和31年3月4日付の中国気象局長から中央気象台長にあてた書簡では日本に災害を及ぼすような気象現象に対してはラジオで知らせるとのことで、この書簡に続いて昭和31年5月21日付で放送開始の手紙が届き、6月1日から気象放送(※2)が開始されました。

この間、全国気象職員組合協議会(昭和28年5月5日)、日本気象学会(昭和30年4月)等はそれぞれのルートによって「地上及び高層の中国で許される範囲の数地点の実況放送」「過去の実況値の公開」等を切願する努力を続けた。日中気象情報の交流について、これ等の果たした役割は忘れることのできないものがあります。ちなみに中国がWMO(世界気象機関)に正式に加盟したのは昭和47年のことでした。

1972年(昭和47年)田中角栄総理が訪中し日中国交が回復しましたが、それ以前に1954年の文化使節団訪中、1957年の日本農業代表団訪中、1960年新聞記者団や日本演劇団訪中、1964年日本女子バレー団訪中などがあり、日本と中国の各分野での交流がありました。

(※1)中国は昭和21年に蒋介石が率いる国民革命軍と毛沢東率いる人民解放軍が武力衝突して国共内戦がはじまりました。これにともなって気象資料の放送はなくなりました。

(※2)日本の気象放送は1分間90字位ですが、中国は1分間に120~150字と速く、人の感覚では判別が困難な通信速度でした。天気図に記入されたのは昭和31年8月1日からで、前日の天気図と比較したのが図です。

受信した数字を天気図にそのまま記入できるのは気圧、気温、露点温度、視程(見透しできる距離)気圧変化量、雲の高さで、その他は記号で描きます。天気を現す記号は絵文字で国際的に99個定められています、例えば晴れ①、曇り◎、雨 、霰△などです。熟練した予報者は受信した数字を頭の中で記号に変換して記入しました。直記入と呼んで技術というより職人業といったほうが適当だと思います。この予報作業は全国の気象台と測候所で行われていました。予報の現場を大きく変えたのは、1958年に無線フアクシミリ(facsimile)放送が開始されてからです。現地では処理出来ない大量の天気図や資料が入手出来るようになりました。

無線放送のために電波の伝播が乱れますと判別出来ない資料で予報せざるをえませんでした。そのため地上天気図の直記入の作業はつづきました。1959年に大型電子計算機による数値予報テストが始まり、順次内容を充実させてきました。1966年にモールス通信方式がテレタイプ通信に変わり、一分間に375文字の速度でデータが印刷電信機により出力されるようになり、職人技の直記入は影を潜める事となりました。現在はパソコンで日常的に通信していますが、当時テレタイプ通信は気象庁だけでした。もとはといえば昭和20年に内外の気象データ収集の為米軍が持ち込んだテレタイプ送受信機で、これを参考にして日本文字を使えるように改造作製したもので、キーの配列は米国仕様でモールス信号が基本になっていました。

現在の予報作業は、気象庁の電子計算機で処理された天気図をはじめさまざまな予想資料が各地方気象台に配信されており、これに基づき地域の特性を加味して提供しています。

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