◆アンモナイト採取

久しぶりに和泉村朝日に行きました。自然史博物館友の会主催の「アンモナイトを探そう」という企画に参加させていただいたのです。昨年は大変な悪天候により中止となりとても残念でしたが今年は幸いとても良い天候に恵まれ実施することができました。

オパールやメノウの原石を拾うという体験は保育所勤務時代‘親子の集い’として福井市の海岸で何度か体験しているのですが、化石なり、水晶なり、何でもいい、山に入っての鉱石採取の現場にも一度行ってみたいという実にあいまいな長年の念願を石好きの孫たちをも巻き込み、ようやくかなえることができたのです。和泉村は最初の赴任地でもあって、採取地は貝皿とのことです。貝皿地区にはもう四十数年前のことになるのですが当時担任をしていたクラスの子たちの家もあったのでよく足を伸ばした所でもありました。当時は長野ダムの建設で大賑わいで、その際発掘された‘菊花石’だの‘ハチのス珊瑚石’だののいろいろな石ブームでもありました。当時はそれほど深く石に関心があったわけではありませんでしたので今回連れて行っていただいたその貝皿地区の山深くにそのようなところがあることなど全く知る由もありませんでした。(採取には必ず許可が必要です)

越美北線の最終駅九頭竜湖駅を一歩出ると駅前のあまりの賑わいと変わりように、あっ!と一瞬浦島太郎的気分に陥ってしまいました。人の賑わいは紅葉真っ盛りの時期でもあったからなのでしょう。家に帰って化石採集に使ったぐん手を洗おうとしたとき、そのぐん手にこびりついている土の匂いから、一億五千年あまりも前の地層が崩れてあたり一帯のそうした崩れてごろごろしている石にしみ込んでいるしっとりとした清浄な空気や土の匂いがふと思い起こされ、その地層の土を洗い流してしまうには忍びない思いにふと駆られたのです。それらの石はかつて海だった時代の砂が砂岩の層となっていてどの石をとっても何かその頃の生物が潜んでいそうな石ばかりでした。こうした太古の時代の様々な生き物が化石となって潜んでいる地層の中に身を置けたひと時が、なぜかダイビング中に深い海の底に身を置いたひと時のような心地よさ、安らぎ、懐かしさに、更に清浄さが重なり、機会があればまた是非ともあの地層に触れたり、包まれに行きたいものだと思えました。

今回は残念ながらゆっくり話す時間がなかった元クラスの子だった人たち(今はすっかり良い大人になっておられるのですが)ともゆっくりと話をしたり、昔の記憶をたどって村の中を歩いて、当時お世話になった方々にもお会いしたいと思うのです。関心のある方は、自然史博物館または自然史博物館を検索していて偶然に見つけた ‘RZVログ・友の会’で検索してみてください。 ‘RZVログ・友の会’のブログにはそのときの参加された皆さんの現地での活動振りの写真が入った報告が既になされています。

◆お話のなかの‘織物’とは?

さて「衣の生活」に戻りましょう。保育園では子どもたちには毎日お話しする時間を持っておりました。そうした子どもたちに語るお話の中には織物とかかわるお話もたくさんありました。たとえばみんなによく知られている‘七夕伝説’織姫様、彦星様のお話ですね。その他に瓜子姫、鶴の恩返しなど織物とかかわる話は日本だけではなく世界各地にたくさん伝えられているのです。それらのお話を読んでいると、織物は神ごととして語られることが多いように思われるのです。

「清浄な水のほとりに機屋を立てて選ばれた処女に神の衣を織らせる。谷間に響くせせらぎの音はその機織姫の機の音でもあろうか。神に身をささげた処女の神聖な営みは村人たちの覗き見ることを許されないものだった・・・時を織りなすように、世界を織りなすように、休みなく織り出されていく織物が神の技を表していたのだろうか。・・・生きながら神の領域に行くとすれば、それは川の畔以外にはなかった。」(篠田知和基著『竜蛇神と機織姫-文明を織りなす昔話の女たちー』人文書院)

また保育園で子どもたちの誕生日に必ずしていた「誕生物語」のお話があります。

「ここから遠い、遠いお空のむこうの天国には、お星様の神殿があります。・・・この神殿には、大勢の天国の子どもたちが住んでいます。・・・子どもたちは地球が大好きだったので、いつかふたたび人間の子どもになりたいと思っているのです。天国の子どもたちのうちの誰かが、人間の子どもになることが決まると・・・天のお使いたちが地球に向けて長い旅に出る子どものために、たくさんのお星様のひかりの糸をつかって、美しい透きとおるような、うすくて柔らかい衣を織ってくれます。やっと、やっとその衣が仕上がったとき、天国の子どもは、それまで住んでいた星の広間をあとに、大きな星の階段に向かいます。・・・守護の天使は、子どもの手をしっかりと握って導きます。・・「まもなく、私は地球への扉を開ける。お前は地上に生まれるのだ。お前の背にあると黄金の翼と、その美しい天の衣を私はしばらく預かっていよう。さあ、お行きなさい。・・・」そして地球の門が開いて私たちが生まれてくるというのです。(『日本のシュタイナー幼稚園』―水声社)

ここでも「衣」の話が出てくるのです。とても不思議な話ですね。

◆昔の「衣」の生活

着るものも必要に応じて作られていた時代と違って、満ち溢れて作られている洋服のなかから自分にあった洋服を、自分にあった価格や好みで探すだけで実に簡単に手に入る今の時代の人たちとっては、こうした話は単なる昔話の世界の‘おはなし’でしかなく、そこになんらかの意味を見出そうとすることなどは一笑に付されてしまうことかもしれません。しかし、これまでたくさんのお話に触れ、実際に園児たちと綿を作ったり、蚕を育てたりして糸を紡ぎ、織りをしてきた私にはそれは単なる‘おはなし’であって、現実に通用することではないと簡単に割り切ってしまえることのようには思われないのです。  

こうした神様の衣を織るという織姫のお話に出会うたびに頭をもたげてくるのは、私の「衣」に対する思いの一番底にあってこうしたお話の意味する「衣(い)の初発」ともいうのでしょうか、「神の衣を織ることとは?」、「織るということとは?」という疑問やこだわりでした。

昔の時代は女の人のたしなみとして身につけるべきことの一つに織ったり、縫ったりすることが一人前にできることが課せられていたものでした。その当時でも日常においても洋服よりもまだ簡略化した着物を着ていることの多かった母や伯母が衣服、特に着物をとても大切に扱っておりました。

今の人にはそんな言葉すらも耳にしたことのない人がいると思いますが、一年に一度は着物を箪笥から出して‘虫干し’し、古くなった着物は‘洗い張り’をして庭先で糊付けしたものを板に張ったり、‘伸子張り’という細い竹の両端に小さく針が付いたものを何本も使って布を張って布を新たにし、仕立て直して着ていました。糊も家で煮たもので、どんな小ぎれでもそうして洗い張りしてとても大切にしまっていました。

そんな小ぎれも時としてお役に立つことがあったのです。鯖江の石田というところで昔に織られていた‘石田縞’という布をその復元していくための一つの資料として仁愛短大で藍染とも取り組んでおられた先生が探しておられました。昔の福井女学校時代の制服の袴は石田縞だったということです。ひょっともと思い、心当たりの義伯母に尋ねるために母の実家に問い合わせてみました。すると母のものがわずかに入っていた箱がまだ実家に残されていて、その箱を蔵から出してこられました。その箱の中に何枚かのはぎれがありました。そのはぎれが偶然にも石田島だったのです。その袴は伯母や義伯母たちの時代には使われていなく、たまたま母の時代にのみ使用されていたということでした。おもいがけずもこうして小ぎれがお役に立ったのです。

子どもの頃の洋服の上に羽織るはんてんや、袖なしなども「これはだれそれの何だった」と説明を加えながらそうした小ぎれを足して実に手軽に成長に合わせて作り直しては着せてくれたものでした。簡単なものであれば洋服も仕立てることができた母は戦後の物のない時代、男物であれ、女物であれ、洋服であれ、着物であれ、家にあったものを出してきて、それらを生かして、あるいはそれに新しく買った布をデザインとして少し付け加えて大きくなるまでのほとんどの服を手作りしてくれたものです。  

大手術をして、退院したあとの大変なときであっても家で養生しながら、冬季には着物の下に着る毛糸で編まれたものをほどいて染め直して蒸気で湯のしをかけておいたものを取り出してきて、編みこみ模様を入れながら幼い私のセーターやカーデガンを編んでくれている場面を今でも忘れることができません。母たちが‘らくだ’とよんでいた義伯父のコートだったと思うのですがその生地で首周りにウサギの毛皮をあしらって私の外套を作ってくれたことも懐かしく思い出されてきます。そこには、何もない時代であっても手元にあるものを工夫しながら作る母としての楽しみがあったのかもしれません。出来上がるまでの過程を傍で見ていて、それらを身にまとうとき、こうして作ってもらったものを着るうれしさや誇らしさと共にいつも母や伯母のこうした思いも一緒に着ていた様に思います。

昔は学校で毎年必ず学芸会というものが行われていました。低学年の頃は着物を着て踊らせていただいたことも何度かありました。そのときの私の着物はいつも母や親族の大人の襦袢などを稽古用、本番用の振袖として仕立て直して持たせてくれたものでした。その頃のおとなの着物は表地はとても地味なものであっても襦袢などには暖色系のかなり大胆な柄のものが使われていました。羽二重ほどには薄くなく、表地に使われるちりめんほどには重くないそのちりめんの身にまとった手触りの柔らかさや感触を今でも体のどこかで微かに覚えているのです。

それは子ども向きのかわいい柄では決してないのですがどこか品位を感じさせるその柄行に先生方も‘いい着物ね’とほめてくださってはいたのです。しかし練習時間になって特に稽古用の寸方を直しただけのまだ襦袢に近い着物の包みを開かなければならないときの気の重さ。つい友達の着物と比べてちょっと古いような、大人しいようなその着物への何か恥ずかしさからの気後れかいつも開くに勇気がいったことを覚えているのです。かといって友達の着物がうらやましかったわけではないのです。

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