◆ひな祭りの雪遊び

3月3日、まだ雪たくさんあるから‘ひな祭り’の雪遊びをするので来てくださいというメールでの案内を加賀市の市の谷の林さんからいただきました。先回の雪遊びがとても楽しかったのかすぐに家族一致で参加が決まりました。しかし、そこまで運転して連れて行かなければならない私には先ずそこまでの雪道のことが心配でした。今日は道にはぜんぜん雪がなく大丈夫だが、もし当日雪が降れば九谷ダムまで迎えに出るから是非に来てくださいというご連絡を前日に再度いただきました。その強いお誘いの言葉で、行けるところまで行こうと意を決して出かけました。その日はあいにく雪がちらつく天気とはなりましたが九谷ダムまでは全く何の問題もなく行けたのです。しかし、そこから先の道には朝からの雪か、かなりの雪があり、行くには行けてもこのまま更に降れば帰りの道が危ぶまれます。しかもここは携帯が一切つながらないところです。連絡もつかずいっそここで引き返そうかと思案していました。そのときです。ちょうど迎えの車が見えました。その迎えの車で杉水まで乗せていっていただくことができたのです。

杉水では大きな雪だるまのお雛様の出迎えです。まだたくさん雪があるとはいえ、その雪をとかすために石垣の間を伝って流されている山からの水でしょうか、その水の流れにももう既にそこはかとない春の香りが漂っていました。

荷物を置くとすぐに子どもたちは早速そり遊び。さすがに子どもたちの上達は早いものです。先回にはまだ使いこなせなかった手作りの竹のスノーボードも、もう上手に乗りこなせるようになっているのです。今回は大人も子どもに負けじとそのスノーボードや手作りのスキーに挑戦です。そして昼食はひな祭りにちなんできれいに盛り付けされ見るからにおいしそうな散らし寿司やお吸い物でした。(そのときの雪遊びの状況も“百笑の郷”で検索してみてください)。

◆楽器とは?

午後には先回に引き続いて糸魚川から来られて縄文時代のクッキー作りを指導くださった方の音遊びとその楽器作りです。話によれば太古においての人のその音感覚は自然崇拝からの呪術的なものに根ざしていたものだったそうです。ですから楽器と称していいのかそこで使われていたものはすべて自然との呼応のための音を出すもので、いたって素朴でシンプルなものが多かったようです。今日の様々な楽器はそうしたものを源流として派生してきているのだろうとおもいます。

我が園でも子どもとの音の出会いはなるべくそうした自然や原初的なものとの触れ合いを音遊びとして取り入れておりました。それだからでしょうか保育園でそうした楽器を体験している孫たちにとっては持ってきてくださっていた数々の素朴でシンプルなそれらの楽器に対して何の違和感もなくとけ込み、講師の方のそうした音の世界のお話にもとても興味を持って真剣に聞き入っていたようでした。

しかし、竹を切って楽器作りが始まると子どもというものは正直なものです。午前中のそり遊びがよほど楽しかったのか、またはまだ遊び足りないのか皆山の方にすべりに行ってしまいました。子どもとはそういうものだと知っておられながらでしょう「だから子どもって嫌なんだ」と講師の方は一人呟かれていました。残って楽器作りに精を出しているのは大人ばかりです。しかし、充分に滑って満足したのか子どもたちはまた戻ってきて楽器作りとその音出しに挑戦し始めたのです。竹を切って節の近くに大きめの穴を一つ開けただけの実にシンプルな楽器です。しかし、それで音を出すとなるとそのコツを体得するまでがなかなか大変なのです。大人も子どもも、老いも若きも、家の中でも外でもみんながその音出しに夢中でした。今でも孫は時々家で‘ぶぁおー’とその音出しをやっているのです。

講師の方のブログを紹介していただいていたので(「縄文人(見習い)の糸魚川発!」で検索してみてください)家に帰って開いてみると縄文時代にまつわる翡翠の石や石笛(いわぶえ)などとても興味深い、深い内容について書かれているのです。そのなかで“今日も何処かでお宝が燃やされていく・・・漆什器顛末記”の文字が特に目についたのです。民俗資料を集められてもおられることから農家の土蔵に収蔵されていた輪島塗などの高級漆のお膳やお椀などが不要となり、焼却処分される寸前のものについての情報がよく寄せられるそうです

◆古い家とはそんなに不便で住みにくいものなのでしょうか。

実は今、私自身も実家や親類の古い家や蔵やそのなかに収蔵されてきたものの保存、処理に間接的ではあるのですが関わる立場にありました。今までは私が関わらなくてもやるべき人が周りには当然のごとくにおりました。ですからそんなことは私にはあまり関係のないことでもあったのです。しかし、しかしです。ふと気がつくと身近にあたりまえのごとくにいた血の繋がった親兄弟はすべて亡くなり、残っているのは私一人だけになっていたのです。家族親族の比較的少ない旧我が家では、家族同然に親しくしてきた親族の多くは亡くなっていて、わずかに残っている人も高齢で昔のことをどれだけきちんと若い世代に伝えられるのか定かでない状態なのです。

そんななかで母の実家の従兄からもそのルーツをきちんと記録して若い世代に伝えてほしいと次兄と私に依頼されていたのでした。その矢先、次兄は突然急にその約束を充分に果たすことなく亡くなってしまったのです。かつて大陸の広い世界での生活を経験している母の実家の義伯母が子どもの私に笑いながら話してくださったものです。「私の姪がね‘伯母さんよくこんなところにお嫁にきたね’というのよ」と。いつも夏休みになると、母の実家で過ごすことがうれしくて、うれしくてたまらないそんな私の様子を見ていて言われたことなのでしょう。

母の実家で過ごさせてもらった時間は私にとっては何物にも代えがたい心の宝です。祖父、祖母に代わっていつも快く私たち兄妹を受け入れていただいた伯父や義伯母やその家族に対して心からの感謝です。しかし、私にとって一番身近な家といえばやはり私たち親子を引き取って二十余年間育てていただいた実家の古い家です。今では随分遠い昔のことになってしまったように思えます。その家がいつの頃に、誰によって建てられたものなのか聞こうにも聞く人もいなくなってしまっています。

その家は子どもの頃の私にとっては何もかもがあたりまえの家だったのです。たとえ冬季に家の隙間から雪が吹雪き込んでくることがあったとしてもそれが不便だとか住みにくいとかは思ったことがなく、そういうものだと思っていました。今も目を瞑るとそこで過ごしたいろいろなことが思い起こされてくるのです。

玄関や上がり縁の板の間は子どもながらに掃いたり拭いたりよく掃除したものでした。家族に命じられてやった記憶はあまりないのです。かといって掃除が好きだったともいえないのです。強いて言うなら掃除をするといろいろなところから思いもかけないいろいろなものが出てくるのでそれらとの出会いや発見が面白く、楽しみとなっていたといってもよいかもしれません。ですから、毎日のように掃いていた玄関のどこの石がどのように磨り減っているかという石のへこみ具合までもあたりまえのこととして知っていたのです。

玄関の上がり縁やその敷居も虫食いがあって雑巾がけのたびに引っかかるのでそこの雑巾がけのときはいつも‘そげ’が刺さらないように警戒しながらしなければならない、ということもそうした日々の中で充分に知っていたのでした。しかし、そうした状態を取り立てて口に出して家族に言うまではなかったように思うのです。

二階には半間ほどの廊下が真ん中に走っていて三部屋ずつ対になって部屋が6部屋ありました。昔は平屋だったのだが後になって(いつの頃のことでしょう)遠くの通えない患者さんのために、入院用に改修したのだと聞いたような、聞かなかったような・・・。ですから兄たちが遠くの学校に行くことになって誰も使う者がいなくなるとその六つの部屋のどの部屋も思うように我が部屋として専用して使えたのです。

いつ建てられたかわからない古い家でしたから、それぞれの部屋には何がしかは置かれています。それぞれの部屋の押入れも開ければいつの時代の誰のものかもわからないものが一杯入っています。全く進入不可能なくらいに物が置かれている部屋もありました。ですから私の移動できる許容範囲で移動させて我が部屋にしてしまうのです。部屋の移動はいつも家の者に相談することなく思いついたら黙ってしてしまっていたので、家の者がわかるのはいつも後になってのことでした。時には移動の邪魔になるものの処分を相談して家の者に叱られたことはあったような気がします。しかしそうした勝手な移動に対して何かを言われたことは全くなかったように思います。が、それらのものを私が勝手に処分するようなことは決してありませんでした。

その移動の作業中には、会ったこともないこの家の先住の方の持ち物や遺品が出てくるのです。母や伯母の女学校時代に作ったという物やこの家にあまり関係のない戦争時に亡くなっている父の物まで疎開させてありました。進入不可能な部屋には義伯父が使っていたという糸の切れたり、ゆるんだりしていた琵琶がずっと無造作に置かれていました。それでその糸のゆるんだ琵琶を時にはべぇーん、べぇーんと少し爪弾かせていただいたこともありました。その琵琶はこの年になって思い返してみると、子どもながらただの琵琶ではなく‘義伯父の琵琶’としていつもそこに義伯父の存在を共に感じていたのです。だから勝手にいじくれない何かがあったのだろうとおもいます。しかし、何気なく子どもの頃に見ていたそうした琵琶の存在が今でも琵琶に対してどこか憧れにも似た特別の思いを抱かせるのです。

そんな琵琶も家の新築の折にとっくに処分されていると思うのです。でもまだひょっとして何処かにとっておいてあるのでしょうか。また‘黒い部屋’とよんでいた部屋は囲炉裏に近い二階の部屋で、そこを掃除するといくら掃除しても鼻の穴から真っ黒になってしまいます。しかし、その部屋の行き当たりの大きな押入れにはその墨で黒ずんでしまった食器が一杯入っていました。昔、医師会というのは回り持ちで自宅でやっていたそうで、そのときに使った食器だということです。ガラスの刺身皿(下に氷をおくための細いガラス棒を編んだすのこ付き)などいくら磨いてもその黒ずみは取れず、まるで煙水晶のような色までにしかならなかったものです。あこや貝でできたお刺身用の‘のぞき’は磨くときれいに七色の貝の光沢が光り、貝の中央部分が真珠になるかのように丸く膨らんでいて磨くたびにとても心ときめいたものでした。時には解体新書を思い起こさせる古い医学に関した和本が出てきたり。話によれば先住の誰かが遠く医学を学びに行ったときのテキストだったとか?義伯父の母の手習い本が出てきたり。

‘泥の中に咲く花’といわれますが、大人にとっては大したものではなくても子どもの私にとってはこうして捜すとどこから何が出てくるのかわからない未知な世界との遭遇にわくわくして私にとってはその家は楽しみの宝庫でもあったのです。混沌のなかにこそある思いがけない珍しいものや美しいものや楽しいものを見出す喜びはこの家で培われたのだと思います。

次兄と私は子どもの頃に母に一度?蔵に入れられたことがあります。入れられた当座は暗闇に目が慣れないことと怖さでそこから出るために必死でした。しかし、なぜか私はいつも次兄のようにはうまく脱出できたことがなかったのです。しばらくのあがきのなかにも、その暗さに目が慣れてくると怖さも少し薄らぎ、近くに置かれているいろいろなものに目がいくようになりました。すると、そこにあるものは一体何?あそこには一体何が入っているのだろうという興味が先に立ち、怖さを忘れてしまうのです。目の前のがたぴしとしていて簡単には開きそうもない戸袋の中には何が?そしてその戸を開けてみると、汚れた古い箱が置かれていました。ほこりが舞わないようにそっと箱を取り出して箱の紐をほどいて開けてみると、色が変色していて虫食いだらけになっている和紙に包まれた、黄や緑で絵付けされたお皿が出てきたり。陶器や焼き物の世界にも関心をもつようになったのはこのときのことがきっかけとなっているように思えます。こうして面白くって夢中になっていると蔵に入れられていることや時間のたつのを忘れてしまっていたのでした。

そんなときだったのでしょうか。一階にいつも天上からぶら下げて吊ってあった‘ゆとん(和紙を何枚も重ねて作られた夏の敷物)’というものを見つけたのは。家の者が誰もしない面倒な家の模様替えも夏になればよくやったものです。今になって自分でも気がつくこの変な趣味は確か小学生高学年の頃より始まったと思います。玄関を上がると‘おいえ’とよんでいた8畳ぐらいの畳の間があって、その奥に村の人や親類縁者とのつながりのなかで冠婚葬祭を一切自宅でやっていた時代に建てられていた当時ではどこでもそうだった田の字型に仕切られた四つの和室がある家でした。その和室の庭に面した部分が奥の便所まで半間ほどの廊下になっていました。夏になると冬の間中その廊下に敷かれていた畳を起こして廊下にするのです。そして蔵にしまわれていたのでしょうか、それとも仏壇の裏にでも置かれていたのでしょうか、家のどこかで見つけた夏戸を障子と入れ替えるのです。

その吊り下げられていたものが ‘ゆとん’というものだということやその扱い方を伯母に教えてもらい、それを蔵から家に運びだすのを手伝ってもらって、座敷に敷いて毎日固く絞ったきれいな雑巾で拭くのです。きれいに拭いた深い茶色のその‘ゆとん’の上での、海で存分に泳いで帰ってからの昼寝の気持ちの良いこと、気持ちの良いこと。既に子どもの頃にこうした醍醐味を味わう楽しみを知ることもできたのもこうした家だったからだとおもうのです。こうした咄嗟に思いついては家の模様替えをする私を家族がどのように思っていたのかは知りません。しかし、決して叱られたことはなかったようにおもいます。むしろ喜ばしいこととして受け止めてくれていたようにも思うのです。家の者が手をつけようとさえしないところからなんでもほじくり出してきては聞く私に伯母は決して面倒がることなくむしろ喜んでそれについて、更にそこから発展してこの家にまつわることについていろいろと話して聞かせてくれたものでした。そして子どもの私にできないことに対しては惜しみない協力をしてくれたように思うのです。

しかし、こうしたものは合理的、便利優先の時代意識の中で育っている今の人たちにとっては無用の長物と化してきているのです。そうしたもののなかに当時には必要品として使われていた輪島塗のお椀やお膳その他諸々もあるのです。子どもの頃には法事や物事のたびに村の遠縁にあたる人や知り合いの人たちが何人かやってきて、白い割烹着をつけてそうしたお椀やお膳を並べて来られた人へのもてなしの準備をしていたこともとてもうれしかったこととして懐かしく思い出されてくるのです。