今日はパパと一日を過ごした娘。私が仕事から帰ると、「ママ、靴を並べたんだよ。掃除もしたんだよ。」

今朝、Facebookで受け取った道元禅師の言葉を見て、勝手口の方をちょちょっと揃えておいたのを娘なりに感じてくれたのでしょうか。玄関のもうひとつの下駄箱もきれいに並んでいるではありませんか!!! それに本当だ、モップをかけたようで床もキレイな感じです。母は感激で涙が出そう。

「積み木のお家も作ったよ、ここから入れるの。」 

ほー、一人でよく遊んだんだなー、やっぱりパパだと良く遊ぶなと思っていると、娘も「パパのときはこういうの作るの」と言うのです。私と一緒だと、「ママ遊ぼう、一緒に遊んでー」となるのですが、パパはつまんないから諦めていて、一人で黙々と遊びます。

それを承知でわざと「ママと一緒のときもこんなの作ってもいいんだよ?」と突っ込むと、「そりゃそうだけど、でも、、、」

そこで夫が「誰かさんがつまらないからだよな、パパはその誰かさんを知ってるから。」

つまらなかったからこそ、自分で遊びを考え、黙々とお家を作り、部屋を見渡して靴を並べることや掃除までしようと思いつき、実行したのです。つまらないって、大事!

ずいぶん前に所ジョージさんが高校生時代のことを振り返って語っていた番組を見たことがあります。「なぜ所さんはそんな面白い人なんですか」というようなインタビュー だったのかもしれません。所さんは高校生のある夏、やることもなく何もかもつまらなかったとそうです。

所さん曰く、「あー、つまんねえなーとばかり思っていたの。そのときふと思ったんだ。いや、つまんねえのはお前だよ。お前がつまんねえんだよ、俺がって」。そのとき以来、面白いこと、楽しみ、笑いを創り出すことを常に考えて生きていると。そんな内容でした。

おもちゃだけでなく、最近はさまざまなスクリーンに囲まれ、子どもは常にエンターテイメントを享受しています。ニューヨークでは車の中や、ベビーカーの中でさえ、子どもは画面を与えられて見入っているのをよく見かけます。日本ではどうでしょうか? 最近のNYタイムスの記事で、レストランで食事をしている間、子どもにiPadを与えておいて静かにさせ、その間に大人たちがゆっくり食事や歓談を楽しむのはいけないことか、という議論がありました。開いた口がふさがらないとはこのことだと思いました。

私たち現代の大人がやりがちなのは、子どもの一分一秒を「教育的配慮」で隙間のないように埋め尽くしてしまうことです。スクリーンに限らず、あふれるおもちゃに囲まれ、幼稚園、学校、おけいこやスポーツクラブ通いで毎日忙しくしている子ども達。合間のボーっとしている時間は脳にとって、学習した情報を処理し統合するのに貴重な時間だそうです。それなのに、合間や移動の時間にも、スクリーンに見入ったり、宿題をしたり、ボーっとすることが許されないかのような忙しい今日です。大人がまずそうだから子どももそうさせてしまうのでしょうか。

このように常に教えられ、与えられる状態に置かれていると、子どもの内にある可能性は眠ったままになってしまいます。昔の子どもは石ころ、棒切れ、ゴムなどで限りなく遊びを展開したそうです。すべては昔に戻れませんが、なるべく「つまらない環境」を与えてやりたいというのが私の挑戦です。

私も何か壁にぶつかって、「つらい、苦しい、うまく進まない」ときは、私自身がスクリーンに埋もれ、あふれる物や情報でアップアップになっているからでしょう。そこでどうするか。どんな小さなものであっても、自分で考え、動き、創り出す自分でいたいものです。

■道元禅師の言葉
はきものをそろえると、心もそろう。心がそろうと、はきものもそろう。ぬぐときにそろえておくと、はくときに心がみだれない。だれかがみだしておいたら、だまってそろえておいてあげよう。そうすればきっと、世界中の人の心もそろうでしょう。(道元禅師)
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