6月28日は福井地震から65周年目となります。中央気象台(現気象庁)発行の「福井地震調査概報」から抜粋して当時を振り返ってみました。

■山中丘(福井測候所長・福井県小浜出身)

仕事が終わり構内にある宿舎へ戻り玄関に差しかかった時、少し体がふらつき振幅は次第に大きくなった。緩慢で割合遠い地震と思われ、以前から時々あった南海道地震の余震ではないかと思い停止して家の動きを見守った。

時間は5時13分過ぎ(夏時間)、予想どうり振動が小さくなったので家に入ろうとした瞬間大きな振動が来て屋根瓦がガタガタと動きだし、危ないと思い家のなかへ「逃げろ」と怒鳴った。

縁側から娘が飛び出して来た直後窓の硝子戸がはずれ、鴨居がはずれるのを見た。歩こうとしたがバッタリ倒れ転びながら勝手口に行くと妻は忘然として立ちすくんでいた。

庁舎は倒壊し周囲は砂塵が立ち込めており所員は避難して無事で、火の元の用心と余震の観測をするように命じた。地震の初動は7~8秒であり近地地震で震源は琵琶湖方面かも知れないと思った。

「夏時間」・・・当時は日本全国で夏に1時間早めた時刻で生活した。

■宮前経吉(福井測候所主任)

帰宅途中旭橋を渡った途端大きく水平動を感じた。周期もさほど急激でなく初動時間は4秒前後と思った。

時計は17時13分30秒(夏時間)で4、5歩いた時大きな揺れで転倒した。大振動がすんで起き上がり周りを見ると建物が倒れ、土塵が舞い上がり、電線は垂れ下がり、恰も大空襲の跡のようであった。

職場へ戻る途中赤ん坊を抱えた女が屋根の庇の下になっていて「助けて頂戴、助けて頂戴」と叫んでいるので庇を持ち上げて救出し、職場へ急行した。

■小黒久雄(福井測候所技術官)福井市尾上中町25、西別院内同胞住宅、階下にて。

初期微動より倒壊まで南北にゆれ10秒ほどで建物倒壊する。建物は軍隊兵舎の移築で100世帯住居する。

鍵状の二階建で、南北に長い部分は階下は潰れ二階はそのままだが、東西の部分は階上階下とも潰れた。

なお、南にあった寺は北方に倒壊し、釣鐘堂も北方にのめり出す。

■丸岡高等学校生徒

 二階におり、地震が来たので階下へ降りようとしたが階段が壊れ転び落ち、二階が落ちてきて気がついたら便所にはまって居りました。

■森田中学校生徒

課業の後で校内の一番奥の教室で地図を書いていたら、あまり急な地震で友達に声もかけられず廊下をすべりよろめいて走った、

上下の動きを強く感じ、中程で床は傾き何度となく倒れた。次に来た地響きと共に壁は落ち校舎は倒れて下敷きになった。

■中藤島中学校生徒

急に来た地震は危ないと聞いていたので、外へ逃げお宮さんの竹やぶへ2・3回転びながら、もう2メートルあとだと良かったのですが機業場の下敷きになりました。

福井測候所は40倍の大森式地震計で観測していましたが、昭和20年の空襲で破損し、福井地震の地震計による記録はありません。

仮にあったとしても地震計は破損して初動のみの記録であったと思います。

当時の地震記録方式は直径30cmのドラムにつるつるの上質紙を巻きつけて灯油の煤で燻し、地震動を伝える極細い針金で煤を取り除き、観測終了後はニスで固める方式でした。

図は福井地震の記象紙コピーで、左側は兵庫県豊岡測候所のウィーヘルト地震計(地動を100倍にして記録する)です。

SNは108倍の南北動、EWは98倍の東西動、 UD(UP DOWN)は70倍の上下動の記録です。右側は敦賀測候所の簡単微動計でSN、WE共に50倍の記録です。

いずれの記録も地震発生後数秒で記録針が飛んでおり、揺れの大きさのため最後まで記録されていません。

現在の気象庁の地震観測網は全国600箇所に震度計を設置し、観測値はコンピューターに入力されて震源地やマグニチュードを算出している。

「大森式地震計」・・・1898年頃東京大学の大森房吉が開発、全国で多く使用されていました。氏は福井市出身の地震学者。
「ウィーヘルト地震計」・・・1904年にドイツのエミル・ウィーヘルトが開発、高倍率の地震計。