◆夏休み真っ最中です

 「ばあちゃん、夏になるとばあちゃんはうれしいやろう?」。突然の孫の言葉です。「なんで?」「だって夏休みになるとぼくがいないから」。 一瞬?? そしてピーンときました。

 この夏休みには長期の合宿がいくつか予定されているからです。日頃我が家の‘かつおくん’。何事においても自分のしたいことが優先で何かとストレスの震源地として家族をイライラさせることの多くなった孫の私への精一杯の皮肉なのでしょうか? それとも確認?・・・。

 夏休みに入って最初の合宿である24日から始まった知恩院での「おてつぎ子ども奉仕団」の合宿。例年は法然上人が籠もられた比叡山の黒谷でも1泊するのですが今年は行くだけのようです。

 そして今年の夏休みの一番の楽しみで夏休みが始まる前からとても楽しみにしていた7泊8日の市の谷の合宿。この二つの合宿に加え、抽選に入れば8月に入っての嶺南での6泊7日の「海の自然学校」が予定されていたからです。

 これらの合宿は昨年から参加して来年も絶対に参加すると言ってきた割には、その準備にはあまり意欲を示さない。誰の血を引いたのか、何事においても強烈な‘わが道を行く性格’にほとほと手を焼くことしきり。

 幻の孫が私の隣に現れて、行きたさ一心にいそいそとけなげに自ら進んで合宿の準備をしている・・・。しかし、しかし現実の孫はといえば・・・。明日が合宿といっても遊びに行って定刻まで帰ってこない。行きたくないの?何度も念を押しても「行きたい!行きたい!」しかし面倒なことやしたくないことはいつものごとくぎりぎりまでしない。「もう四年生でしょう! そんなに行きたければ少しはその準備も自分でしなさいよ!」。

 堪忍袋の尾が切れた娘は「もう行かなくってもいい!断るからね!」。すると、いつものごとく本人は「へえ・・・」と言うのみ。「もう断ったら!」。娘の言葉が私に向けられる。私も心底本人のためにも断った方がいいようにも思います。しかし、これまでもこうしたことは何度かあって懲らしめのために断ったからといってその結果が良いわけではないことは充分に周知のこと。また現実にはそうできない状況もある。こうした孫でもいつも心から「聖ちゃんが来ないと始まらないからね」といつも心からのメールを送ってくださって待っていてくださる。この広い世界、こんなに温かい思いで心から待っていてくださる人はいないのです。感謝の思いで一杯です。

 そして、孫が言うように、合宿に参加している間のしばしの家庭の静けさと、平安を選ばない方はないという思いもありだと思います。その思いを優先させることにして準備に取り掛かりました。

 これまでも合宿に出すことには慣れてはいてもそれぞれの合宿の長さや内容によって準備といっても異なります。ましてや、知恩院での合宿に引き続いてすぐの7泊8日の準備はなかなか大変です。毎日の着替えの準備に加えて、今回は2日をかけての白山登山が加わるようです。そして海。本人は心に羽でも生えているようですぐにでも市の谷へ飛んででもいけるとでも思っているのでしょうか・・・。あらかたの準備物をそろえて、もう一度、合宿の日程や準備物を本人を掴まえてきてきちんと確認させる。何がいるのかあらかたはこれまでの経験からわかってはいるのだが半ば上の空、わかっているようでわかっていないような。まだ本人にとっては行き当たってはいないよう。ムムムムムム!

 それでも初日のお昼には流しソーメンで待っていてくださるというメール内容だけは忘れていないようで、当日になると早く出ないと流しソーメンの時間に間に合わなくなるとせかすことしきり。そして更に付け加えて「ばあちゃん、今回は道は大丈夫?ネットでちゃんと調べておいた方がいいんでは?」。松岡に入るといつも道に迷う私を見ていてです。完全に娘と私は読まれているようです。そのしたたかさに返す言葉も失います。

 子どもの自立への道のりの苦闘の一こまです。これまでの家族による母性的支援に加え、さらに他者による新たなる父性的支援を必要とする時期にきているようです。

◆母と子の情景

「ア、 アーア、ア、ア?」
「そうよ、フリージア」
「アー、アーア、アー?」
「そう、これはフリージアよ」
「アーア、アー、ア?」
「ええ、そうよ、フリージアの花、きれいね」

 櫻井美紀さんの著書『子どもに語りを』は冒頭上記の会話の情景から始められています。その会話は、国分寺市のある家庭文庫の勉強会に出かけられた折、目にされた母と子の情景だそうです。赤ちゃんはちょうど一歳ぐらい、お母さんはまだ20代半ばの、地味な感じの若い人とのこと。櫻井美紀さんもその15年前から地域の子どもとそのお母さんのために家庭文庫を開いていておられていたので実践交流という意味で招待されたときのことだということです。

 話をする私のために、応接セットの低いテーブルと椅子が置かれていました。テーブルの上には、フリージアが数本、小さな花瓶にいけられてありました。後から来られる人を待つためにそこで待つことにしました。そのとき、一人のお母さんが連れていた赤ちゃんが、はいはいでテーブルのところへ来て、つかまり立ちをしながら、フリージアの花のほうに手を伸ばしたのです。お母さんは「すみません」といって、子どもが花瓶をひっくり返さないように、しっかり抱きかかえました。わたしが、「いいのよ。フリージア好きなのね」といいますと、お母さんはほっとして手をゆるめ、皆がそろうまでの約10分間、子どもをフリージアのそばで遊ばせたのです。冒頭の会話は、そのときに交わされたものです。

 その母と子の言葉のやり取りを聞きながら、わたしは心あたたかく、微笑ましいものを感じました。特に、母親が赤ん坊のために、何度も花の名を繰り返してやっていることを感心致しました。そのことばには愛情がこもっていて、子どもにとっては中身のこもったことばとして身についていくことでしょう。そこがテレビで花の名を覚えさせるのとはたいへん違いがあるのではないでしょうか。赤ちゃんは、その「フリージア」という、同じことばの繰り返しを聞いて満足し、幸せそうにするのです。それを見て、わたしは、この子はもう母親の声を通して「ことばへの信頼」ができあがっているのだな、と感じました。