入道雲にのって
夏休みは いってしまった
「サヨナラ』のかわりに
素晴らしい夕立をふりまいて

けさ 空はまっさお
木々の葉の一枚一枚が
あたらしい光とあいさつをかわしている
だがキミ! 夏休みよ
もう一度 もどってこないかな
忘れ物をとりにさ

迷子のセミ
さびしそうな麦わら帽子
それから ぼくの耳に
くっついて 離れない 波の音 
― 忘れ物  高田敏子 ―

「音読 聞いていて! そして(印)の欄にサインをして ! 」 と 宿題に出された教科書の詩を声高らかに読む孫の声。仕事の手を休めることなくそのままその声に耳を傾ける。

決められた回数を繰り返して読むその声にのって 詠まれ出たことばからこの暑かった夏の様々な出来事や様々な出会いが駆け巡り、実に足早に駆け抜けていった様々な人たちや孫たちとの夏の日と重なって胸にしみて聞こえてくる。

それはまるで夏の夜空を一面に埋め尽くして彩るかのように打ち上げられる花火とも重なって聞こえてくるのです。

◆ 三国花火を見てきました

今年生まれて初めて貴重なご縁をいただいて三国の花火を見に行ってきました。三国の水上花火の美しさについては昔から伝え聞きしかど・・・。しかし、何しろ人ごみの中に出かけることのごくごく苦手な私には、一度は見たいと思いながら福井の花火すら出かけてまで見に行くことはこれまであまりなかったのです。

是非とも花火に招待したいというご案内をいただいたのは何ヶ月も前のこと。日頃私たち夫婦に心から深く心を寄せてくださる三国の地元で根を張って生きてこられている方々の心からの招待によるものでした。花火を見せていただくこともさることながら、招待くださるその方々の私たちへの様々な思いを込めたお心配りが、その思いが、深く伝わってきて心からの感謝と喜びでその招待を受けるご返事をすぐにさせていただいていたのでした。

私たちの子どもの頃にはまだ三国の花火でしかなかったようおもえるのですが、近年ではもう全国から集まってくる人人人。あの広い砂丘がたちまちのうちに身動きもさまならないくらいに人人人によって埋め尽くされていました。

わざわざ奈良から三国の花火を見に来られたというまだ小さなお子さんと赤ちゃんをつれた若いご夫婦にその晩ホテルで出会いました。まさによくぞ・・・という思いです。よほど花火がすきなのでしょう、いろいろな所に花火を見に行かれているとのこと。しかし、こんなにすごい花火を見たのは初めてだったと感想を漏らしておられました。

最初に度肝を抜くような二尺玉といわれる豪華で美しい花火が打ち上げられ、それが大空一杯に広がると砂丘を埋め尽くしている観衆からおもわずため息にも似た“オー”という歓声が沸き上がる。

しかし、その花火が次々と打ち上げられていくにつれ、次はどんな花火だろうという期待感。そしてすごいものを見れば見るほど次はもっとすごいものを・・・、もっとすごいものを・・・とそのおもいが次第に募っていく。人間の思いというものはすごければすごいほど美しければ美しいほどこれでよいということなく、さらにもっとすごいものを、もっと美しいものをと、足ることを知らずそのおもいは募っていくばかり。きっと空いっぱいを埋め尽くすまで花火の花が咲き続けなければそのおもいは満たされることはないようにさえ思えるのです。

そうした観衆の要求に応じて花火は年々進化してきているそうです。花火の祭典の進行につれ、次は!次は!と追いかけるおもいが私の内でも走るのです。しかし、瞬時にはかなく消えていく花火の一つ一つをもっとスローモーションでじっくりと味わいたいというおもいもかすかに生じてくる。そうした思いはなぜか花火が終わって日がたつにつれ次第に深まってくるのです。

その進化の裏には観客のそうした期待にこたえての花火師の並々ならぬ努力があるのでしょう。また観衆をより感動させるため、その花火の打ち上げの順番や組み合わせにも当然細心の注意が払われていることでしょう。

‘ファーストフード’に対する‘スローフード’という言葉があるように、花火にも‘ファースト花火’や‘スロー花火’ということばを当てはめて考えてみると花火の見え方も変わって見えてくるように思えるのです。そうした努力がほんの一瞬に、はかなく消えていく花火ゆえ、花火師の立場でその世界をじっくりとゆっくり味わえることができるのであれば一度味わってみたいと思う思いもも・・・。

そして世の中のことは、花火の世界にも通ずることがたくさんあるなあーともおもえるのです。一般にインパクトが強ければ強いほど人々のおもいは更にその先へ、その先へと募り、そうしたおもいによって物事は進化してきたのであり、進化していくのでしょう。そうした方向がひたすら一方的に進められてきたことにより、よくなってきたこともたくさんあるでしょう。

しかし、私たちのおもいを満たすためのそうした方向性はその過程において競争世界を引き起こし、その究極においては破壊にもつながっていくのだということにも目を向けなければならないように思うのです。

その最たることとして近年では原発問題があったり、これまでの社会的現象のなかで様々なことをこれでもかというほど目にしてきているはずです。ただ、そうした方向性の結果はみんなの前に現象化するまでには大変な年月がかかったりして、私たちにはなかなか見えにくかったり気付きにくかったりするものです。

◆ 読書指導?とは

子どもの育ちにおいてもそうしたことがいえるのです。「食べること」においても、その「遊び」においての遊び方やその遊ぶ遊具においても・・・。そして「読書」といわれている世界においてもです。

例えば食べ物においても最初からインパクトの強い濃い味付けやいろいろなものが添加された食品ばかりを食べさせられていると、その食品が本来持っている天与の味を味わう感覚が育たなかったり。

遊びにおいてもインパクトの強い受身的な遊びや遊具のなかだけで育つのであれば、自分の感覚を総動員しなければならない地道で創造的な遊びの楽しさを味わう感覚はなかなか育ちにくかったりです。(遊びや、食生活などの生活の見直しについては過去の‘うんちく’で書かせていただいてきております。参考にしていただければ幸いです)

そして読書においては、現代の子どもを取り巻く環境は決して子どもが落ち着いて本に向きあえる環境ではなくなっています。手っ取り早く楽しむことができたり、簡単に遊べるインパクトの強いテレビ、ゲーム、パソコンその他諸々の機械に取り巻かれその影響をもろに受け、すべてにおいて受身的世界の中で育っている現代の子どもです。それでも大人たちは子どもたちをターゲットにした商品を次々と生み出し市場に出し続けています。子どもたちの未来を考えるとき一体子どもをどうしようとしているのかと怒りを覚えることもしばしです。それはひいては日本の未来につながっていくことでもあるのですよね。 ‘子どもには子どもの付き合いがあるから’とか、‘子どもが静かにしているから’といって親御さんも安易に与えてしまっているのが現状のようです。

子どもはこのような近代の文明社会の世の中を選んで生まれてきているともいわれています。しかし、それは子どもの成長に則してのことで、子どもがまだ幼いその成長にとって差し障りのある時期にはそうした文明の利器を与えることについては充分に考慮されなければならないのです。

インパクトの強い味付けの食事でしか育たない子は、素材の持つ天与の味を味わう味覚が育たないように、人の語るお話(かたり)の世界に耳を傾けたり、字を読むことを通してしか広がってこない地道な本の世界の楽しさ、面白さに子どもたちの関心を向けるということは至難の業のようにおもえます。

お話を聞いたり、読書という世界は心がきちんと落ち着き、静まったなかで、話されていることや書かれている内容に心を集中させて初めてそのおもしろさや楽しさが味わえる世界でもあるからです。

子どもを始め学生、大人においても読書離れが進んできているといわれ始めてもう久しくなります。社会的には子どもが進んで本を読む子になるためのいろいろな手段が講じられているようです。
例えば、読書週間を設けたり、子どもが本を読むための様々な読書推進運動であったり、図書館での読み聞かせであったり、読書感想文の宿題などなど・・・。赤ちゃんからのブック・スタートの運動もそうした活動のひとつなのでしょうか。

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