◆台風18号のさなかで

各地に多大な被害を出した9月16日の台風18号。京都、滋賀、福井にも大雨特別警報が出されました。特に京都嵐山の桂川の増水での浸水被害については観光地だけにいろいろなメデアの映像を通じて報じられていたことはまだ私たちの記憶に新しいことと思います。京都でこれだけの大きな川が氾濫するのも非常に稀とのことです。

近年の異常気象は今に始まったことではないですが、その異常性も、何年か前から実に身近なところでも感じられてきているのです。3年ぐらい前の猛暑日の続いた夏。台所の食器棚の食器がまるで食器棚ごと熱風消毒をした後のようにかなり暖まっていた日が何日も続いていたこと。

そして今年は、糠床に手を入れると糠床までがこれまでになくとても暖かくなっているのです。そして、取っても、取っても毎日黒かびに覆われてしまうのです。比較的風通しの良いところに置いてあるのですが。3年前に作って小出しに取りだすときにかき回しておけばかびの心配など全くなかった味噌までが涼しくなった今でもちょくちょくふたを開けてみなければ白かびに覆われてしまいがちなのです。見えない微生物の世界からも何か異変の呼びかけがなされてでもいるのでしょうか。

「木登り体験」を9月16日にするからという案内が市の谷から届いていました。JRで加賀温泉駅まで行けばそこまで迎えに来てくださるという連絡も入りました。夏の楽しかった合宿のおもいからまだ抜け出ていない孫は、今度は15日から一人でも出かけると言うのです。このような台風の状況の中で皆さんにご迷惑をかけることになってはとどんなに引き止めるのですが耳を貸さず。支度も今度は黙って自分でやっています。

「魑魅魍魎に追われている旅人が北は逆巻く水の渦、南は燃ゆる火のほむら。右も左も荒れ狂う地獄の谷にわずかに見える白い道。西の岸には弥陀如来。恐れずその道を「来たれ、来たれ」と招かれる。東の岸からは「汝行くべし、進むべし」守護して必ず無事に渡さんと励ますお釈迦さまの声。その声を頼みの綱として重き足を踏み出そうとする旅人」

旅人ではありませんが、送り出す私としては、仏教の教えにある「二河白道の譬え」を例えに出すにはあまりにおおげさなのですがその情景と少し重なる思いもしないではなかったのです。

我が身の保全もあってか、何においても先ず安全第一の今の時代において、こうした非常事態においても子どもの気持ちを汲まれて、迎えにまで来てくださるというその度量の広さ、深さに感謝してそのお心に応えるべく一人送り出したのです。
しかし、JRでは一人ではまだ出かけた経験のない身には、いざとなるとさすがに不安なのでしょう。「駅までは送ってくれないの?」と、しおらしく聞いてくる。「目と口と耳と手と足があればどこへでも一人で行けるよ」とこれぞとばかりに返す。「でも頭も必要だよ」とすかさず切り返してくる。

初めてのことでもあり、百歩譲って、次回には自分で行けるようにと駅のホームまで送る。切符の買い方や、乗るホームを教え、きちんと電車に乗せ、乗務員さんにその旨お願いする。しかし、それでもまだちゃんと約束の駅で降りられるのか不安なようだ。しかし乗務員さんの“大丈夫だよ”の掛け声で安心したのかうれしそうに発車する窓から手を振って出かけていったのです。

‘帰りも一人で帰すので駅まで迎えに来てほしい’という連絡を受け、駅まで迎えに行く。ニコニコ顔で改札口を出てきた顔を見ると、この非常事態に出かけたからこそ信頼する人たちと過ごせ一緒に経験できた様々なことによってさらなる自信を深めたようでした。

◆実りの秋、読書の秋、そして子どもの読書指導とは

暑い華やいだ夏の季節も終わり、秋たけなわ、あの外に向けて燃えに燃えた夏の心のざわめきも秋の深まりと共に次第に静まり、落ち着きを取り戻し、その目が少しずつ内へ内へと向けられているのではないでしょうか。

かつて自然界の状況についてこんなことを耳にしたものです。「夏は自然界は眠っていて、冬に向けて自然界は目覚めるのだ」と。えっ!どうして?夏には自然界は目覚めていて、冬には眠っているのでは? そう誰もがおもうと思います。しかし一般に私たちが目にするのは表面に現れている自然現象で、実際には私たちの目には見えないところでおこなわれている生命活動や心の内面における活動は夏には眠っていて、冬に向かってその活動が活発に開始されるというのです。

ですから私たち人間もこれからの冬季間は内面の働きがより活発に活動するようになるので、考えたり、読書したりするのには適した季節だというのです。

子どもがお話を聞いたり、少し大きくなって自分で本を読みその世界の楽しさ、おもしろさがわかる子になるには、赤ちゃんのときからの、お母さんや周りの人からの唄ってもらったり、はなしかけてもらったりの充分な触れあいがあってのことでした。そして簡単なお話がわかる3歳以上の幼児には眠る前の一時としてストーリーのあるお話を聞かせてもらいながら楽しい思いのなかで眠りにつくという環境で育てられることが望ましいことでした。しかし、あいにくそうした環境で育たなかった子たちにとっても、お話を聞いたり、本を読むことの楽しさやおもしろさを味わえるようになるための手立てというものがあるのでしょうか?

心が夏の季節のように外へ外へと向けられていて、とてもざわついているときには、大人の私たちでも読書の世界に心を向けるということはなかなかできないものです。まして子どもにおいてはなおさらです。‘本を読みなさい’と叱咤激励したり、本を買ってきて、ただただ与えるだけではよほど本の好きな子でない限り子どもは自ら進んで本を読んだりはしないものです。先ずは子どもの心が落ち着くよう子どものまわりの環境を整えてあげることから始めることだとおもいます。

◆テレビのない静かな生活を

20~30年も前のことです。ドイツから来日された方の講座で話されたことが今でも心に強く残っています。その講座のテーマは「子どもに与えるテレビの影響について」でした。それまではテレビの子どもや人に対する影響をそこまでとは思っておりませんでしたのでそのとき話されたことは強烈に印象付けられ、今でもはっきりと記憶に残っているのです。

正確な講座内容をお伝えしたいと思って、そのときの講義ノートを捜すのですがあまりに昔のことでなかなか見つかりません。その概要を思い起こすと次のような内容だったと思います。

・まずテレビ番組の内容のいかんを問わず、テレビの子どもに与える影響は好ましくないものだといわれます。赤ちゃんやその年齢が低ければ低いほど子どもにとってテレビは百害あって一利なし。まさに極力避けたいものだということです。
・テレビから発する電磁波の体に与える悪い影響についてはもう皆さんは既にご存知だと思います。小さい子にとってはことさらなのです。
・私たちの感覚ではとらえられないほどの早さのテレビの絶え間ない瞬きの子どもの無意識に与える影響は大きく、落ち着きなさの原因ともなっているのだというのです。
・内容の観点から言えば、子どもの発達に関わらず、放送されるものに対して子どもあくまでも受身であるということです。
・そしてその受身により、判断力が弱まり、将来麻薬や好ましくないことに対しても安易に受け入れてしまいやすくなるというのです。
・テレビをつければ子どもの成長に則さない内容の番組を簡単に見ることができ、そうした内容が子どもを知的に早熟にさせてしまいがちである。などなどです。

テレビの子どもへの影響について書かれている本を目にすることはそう多くはありません。一般的にはテレビは子どもにとってはよいものとして捕らえられているようです。なぜならテレビでは、たくさんの情報や知識が、早い時期からたやすく与えられ、子どもの教育においてよいものだと思っている人が多いからでしょう。

確かに番組によっては、その制作において毎日の学校の授業ではそこまではなかなかできないと思われるほどに行き届いた準備や工夫がなされて、その説明においても実にわかりやすく説明されている番組が多いようです。しかし、小学低学年までの子どもにはバーチャル的体験ではなく、できるだけ実体験が必要だと思います。実体験を通さないで感情を伴わない頭だけの理解で成長したとき、物事はすべてを頭だけで解決できると錯覚し、その結果青少年たちによって次々と引き起こされたおぞましい様々な事件にもつながったこともありました。知性はいくらでも冷酷になれるということです。

家庭で子ども向けのテレビをよく見ている子たちの保育園での行動にこんな光景が見られました。見ている番組の影響を丸々受けて身も心も登場人物そのものになりきってしまっていたのでしょう。高いところから突然友達めがけて飛びかかり、ポーズを決めて友達を驚かせたり、泣かせたりしてしまうのです。そうした行動が頻繁に見られたのです。本人は正義の味方でとてもかっこのよいことと思っているようです。このことをおうちの方にもお知らせし、テレビの子どもに与える影響を話し合ったこともありました。

なかにはテレビ番組のDVDの貸し借りを保育園で子どもを通じてしていた親御さんもおられました。園での貸し借りはしないでほしい旨告げてもテレビは子どもにとっては良いものだと信じ込んでいるその親御さんにとっては私たちの話はとても納得いかなかったようでした。

先日のことです。やることがあってもなかなか取り掛かかろうとしないで、その心の空虚さを暇だ!暇だ!といってテレビを見て埋めようとしている孫に、 ‘図書館にはどんな本があるか見ておいで’といって図書館に行かせたときのことです。静かな環境である図書館で一時を過ごさせるのも必要なことだろうと思ってのことでした。地上デジタル化で大型テレビが入って以来、父親と一緒になって夜遅くまでテレビを見ていることが習慣づいてしまい、やることも究極になるまでやらないで惰性でテレビを見たがる習性からなかなか抜け出ることができないでいたのです。

たくさんの本に取り囲まれた静かな環境で少しは心が落ち着くかとも思ったのです。最初はあまり行くことに乗り気でなかったのですが、大満足で帰ってきたのです。そしてニコニコして言うには‘図書館とても楽しかったよ。これからもちょいちょい行くからね ‘どうして・・・? そんなーに楽しかったの?’と聞くと、おもしろいビデオが何本も見られて楽しかったと言うのです。今の図書館では、そこまで整えられているのだということを孫を通して再認識させられたのでした。

◆子どもたちに「語り」や「読み聞かせ」を

孫が学校から持ち帰った案内で偶然に小澤俊夫氏の講演会を知りました。これまで小澤俊夫氏についてはその「お話し集」を読むくらいであまり詳しくは知りませんでした。しかし、東日本大震災の折“子どもたちにお話しを”とニューヨークに住まれる丹羽博美さんが一躍早くホームページを通じて呼びかけられました。そのときに恩師でおられるという小澤俊夫氏に大変なお力をいただいたということでした。そのとき以来なにかと心にかかる存在の方でもおられたのです。

また、櫻井美紀氏が代表者となっておられた「語り手たちの会」から送られてきていた会報「太陽と月の詩」(1990年12月から送っていただいていてその頃にはまだ手書きの会報でした)や期間誌「語りの世界」を読み直しているとしばしば小澤俊夫氏の講演会の案内や語りについて書かれていることが目に留まりました。それで小澤俊夫氏と‘語り手たちの会’との古くからのつながりを知り、いつかお目にかかってお話を聞かせていただける機会があればと思っていたのです。

その講演会に参加させていただいたことで、ずっと以前から福井でお話会に関わってこられてきている方々との久しぶりに再会もできました。そして福井県の語りの会の会員の皆さんの交流を目的として今年初めて開かれたという「おはなし交流会」にも参加させていただくことができました。それまでにもあまり多くではないのですが、いろいろなおはなし会や読み聞かせの場に出会ってきております。しかし、久々に静かな雰囲気の中でこんなに安心してお話の世界に浸れる、語りらしい語りに出会え、たくさんのお話を聞かせていただくこともできたのです。福井にもこんなに素晴らしい語り手の方たちがたくさんおられたということも私には大きな喜びでした。

こんな素晴らしい語りは大人だけではなく子どもたちにも聞かせてあげたいと切に思われました。そこでお聞きしてみると、語り手の方々の中には図書館で、あるいは学校で子どもたちに「語り」をされている方もおられるということでした家庭においても、眠る前の一時を静かにお話を聞いたり、読み聞かせをしたり、読書の時間にあてるなど家族ぐるみでそうした時間を持てるといいのですが、おできになれそうですか?

ただ子どもに‘本を読みなさい’と勧めるばかりではなく、更に一歩進んで、お話をしてあげたり、本を読んであげたり、一緒に本を読むことでお話しや、本の世界のおもしろさや楽しさを一緒に楽しみながら導いてあげることが必要だと思うのです。しかし家庭では大人の人がそうした世界の楽しさ、おもしろさに関心を持たなければ、なかなか子どもがそうした世界に関心を持つことは難しいともいわれます。

ですから学校で子どもたちがお話を語ってもらったり、読み聞かせてもらったりする自間があるとよいと思うのです。しかし、今の学校は先生方も子どもたちも大変忙しいということです。でも、そうした状況だからこそ子どもたちへの「語り」や小学生も中学年以上への「読み聞かせ」が必要になってくるとおもうのです。

聞く側に立っての、語りや読み聞かせをきちんと学ばれて実際に豊富な実践経験を持った専門の方を学校にきちんと位置づけ、そうした時間を子どもたちが持てれば、そこに参加できた時間だけでも子どもたちはそうした世界を味わうことができるのです。さらにそれが定期的に繰り返されるようになれば子どもたちはそうした世界に自ら求めて心を向ける時間も多くなっていくと思うのです。そうしたなかで、子どもたちは無意識にも求めているといわれる心の糧が与えられ、子どもたちの心はどんなに豊かに育まれていくことでしょう。

ただし、その時間には、感想を書かせたり、テストをしたりは決してしないことです。ただただその時間は子どもたちにとっての楽しみの時間となるべきなのです。

イギリスで「言語造形学」という分野の学びをされて帰国されていた方による「語り」が名古屋で行われた講座の中にはさまれていました。その講座は聖杯伝説のパルツィヴァルについての講座でした。その講座をよりよく理解するために2時間あまりにわたる『パルツィヴァル』の長い語りを聞かせていただいたのです。

2~3年前のことになりますが、同じ学びをされて帰国されて近県に住まわれている方がおられましたので、学校でも子どもたちへの「語り」や読み聞かせの時間を設けてはどうかと校長先生に提案したことがあります。その方を語り手として校長先生に紹介させていただいたのです。

充分な費用は出せないが来ていただきましょうということになりました。しかし、学期半ばで学校を退職されることになり、残念ながらその話は実現できずに終わってしまったのです。子どもたちの活字離れ、読書離れが進んでいるといわれている現代において、学校のカリキュラムの中に語りや読み聞かせを位置づけることは子どもたちをお話や、本の世界に導びく一番の近道のようにも思われます。そして福井にはご自分のライフワークとして取り組んできておられてそうした期待に応えうる素晴らしい語り手の方々がたくさんおられるのです。是非実現させていただきたいとおもっております。

これまで桜井先生への追悼の意味を込めながら、子どもへの語り、読書への導きを考えてまいりました。お話を聞いたり、読書をするということは人生において宝の蔵へ入るための鍵を渡されたことのように思われます。私の人生においても読書は小さいときからの楽しみでもあり、欠かすことのできないものなのです。人生の大変困難ななかにあっても読書を通して目指すべき方向が示され、暗い闇の中にも光が差し込んできました。

そうした世界の素晴しさを子どもたちに手渡してあげるためにも、私も私なりにこれまでやってきたことに加えて、更に積極的に機会が与えられれば、赤ちゃんからの小さいお子さんやそのお母さんたちと一緒に子どもにふさわしい‘うた’や‘手遊び’、おはなしへの導入としての小さい子どものために仕立てられた‘歌唱劇(歌によるお話)’を学び直し、子どもにふさわしいものを選びながら応えていきたいと思うようになりました。それがあんなにもやさしくお心配りをいただいた亡き櫻井美紀先生の御心にお応えしていくことでもあると思えるのです。

そしてこれまで少し学問的に思えた「語りの会」から送られてきているたくさんの会報や期間誌を新たな思いで読み直すことにより、語りについてもう一度学び直したいと思っているのです。そして、一つでも「語り」にふさわしい「語り」ができれば子どもたちに語ってあげて、そのおはなしの世界、‘叡智の宇宙(金井朋子氏の著作によれば)’に、いざなってあげたいなあー、とも、心ひそかに思ってはいるのですが・・・。